須永平太郎は、1861年(文久元年)、今の足利市通三丁目に生まれました。足尾の鉱毒問題に取り組んだ須永金三郎の兄です。
平太郎の父は、田崎草雲と親しかったので、平太郎の端午の節句(今のこどもの日)には、草雲が描いた幟(今のこいのぼり)を立てて祝ったそうです。この時、草雲が「私の描いた絵で祝ったこの小僧(平太郎のこと)をひ弱に育てたら承知しないぞ」と言ったと伝えられています。
平太郎は、1873年(明治6年)に足利小学校(旧東小学校)が開校されるとすぐ入学し、卒業した後は家の仕事の織物業を継ぎました。
1882年(明治15年)、平太郎は、小俣村の木村半兵衛と協力してふるさとの新聞「足利新報」を初めて出しました。足利で作られた最初の新聞は、一年前に出されていましたが、すぐに廃止になってしまいました。平太郎たちがこの新聞を作った目的は、足利の文化が栄えていくことや産業でいろいろなものがどんどん作り出されていくことを助けることでした。「足利新報」は、現在の「下野新聞」として続いています。
はじめ「足利新報」は、人々にあまり読んでもらえず、新聞社の仕事はうまくいっていませんでした。そこで、栃木町(現在の栃木市)の「栃木新聞」と一つに合わさり、「栃木新聞」として再活動しました。「栃木新聞」は、東京で新聞の仕事をしていた人を迎えて、内容を見直し、大きく発展しました。その後県庁が栃木から宇都宮へ移ったので、「栃木新聞」も宇都宮へ進出しました。1884年(明治17年)、そのころ宇都宮で発行されていた「下野旭新聞」と合わさり、「下野新聞」と名前を変えて第一号を発行したのです。
平太郎は、「足利新報」を初めて出した1882年(明治15年)に足利町の町会議員となり、その後足利郡会議員にもなってふるさとの発展に力をつくしました。1909年(明治42年)には、足利郡立高等女学校(今の足利女子高校)をつくることを議会で決め、開校させました。
1923年(大正12年)、平太郎は亡くなりました。お墓は、西宮町の高徳寺にあります。
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