荻野萬太郎は、足利銀行をつくりました。萬太郎は、1872年(明治5年)6月足利町三丁目の荻野峰八のいちばん下の子として生まれました。6歳の時、足利小学校に入学し、小学校時代の成績はとても良く、上の学校へすすむことをめざしていました。しかし萬太郎が14歳の時、お兄さんが急になくなり家の仕事をつぐことになってしまいました。
その何年か後に、萬太郎は足利町長をしたこともある長谷川作七の紹介で、ちょうどそのころ今福村にできた織物講習所(現在の足利工業高校のもと)に入りました。同級生には後に織物に使う生糸を売り買いする仕事をした原田政七がいました。萬太郎の成績はとても優秀で、1889年(明治22年)の卒業式の時には県知事や、その他たくさんのお客さんの前で、卒業生代表の言葉を読みました。
1892年(明治25年)1月、友人の磯部安次郎らと話し合って友愛義団という若い人たちの交流を目的とする団体をつくりました。萬太郎は幹事という役員の中で、その代表である幹事長に選ばれましたが、この時19歳でした。その後、友愛義団が昭和7年に解散するまで、いろいろな研究活動を始め、災害などでこまったひとに寄付をしたり、英語研究会など多くの活動をその中心となっておこなってきました。これらの活動の中から後の司法大臣である横田千之助をはじめ地元の足利で活躍する数多くの人物が育っていきました。
1895年(明治28年)2月、頭取であった岩下善七郎のすすめで、第四十一国立銀行へ見習いとして入りました。ここで銀行の仕事を勉強しました。後に当時のお金で15万円の元手で足利銀行を新たにつくることが決定し、岡島忠助など5人による取締役会は、頭取として当時まだ23歳の萬太郎を選びました。場所は通り2丁目(現在の足利支店の所)に古い家を借りたそうです。支配人は相場杢左衛門、行員には原田与左衛門が足利町長をやめて入り、これに丸山房吉、木村翁次郎といった顔ぶれでした。行員の服装は和服に前垂掛という姿で新しい銀行が出発しました。
足利銀行はその後どんどん大きくなり、県外では桐生、館林、東京、伊勢崎、前橋、高崎などに支店を開きました。また他の銀行といっしょになることもすすめながら、県内では鹿沼、今市、日光に支店を新しく開きました。その後、萬太郎は1934年(昭和9年)頭取の地位をやめるまで40年近くにわたって足利銀行の仕事をつづけました。この足利銀行以外にも他の銀行や会社などの経営に直接かかわり、足利市内外の金融界や、産業界に残した足跡は非常に大きいものがあります。
萬太郎が政治に関係するようになったのは、1903年(明治36年)6月足利町の町会議員に当選してからです。1899年(明治32年)に足利が町から郡になると、木村浅七(先代)たちといっしょに郡会議員にも選ばれています。 この年の4月、友愛義団の全員が集まる会議で須永金三郎が渡良瀬川の鉱毒について問題にしたことがきっかけで、友愛義団が中心となって足利鉱毒救済会という組織がつくられました。この時、萬太郎は進んで委員長となって、鉱毒で被害をうけた人々を救うための寄付などを行う義援活動をおこないました。
1921年(大正10年)には足利が町から市になり、萬太郎は市会議員に当選し、議長にも選ばれました。こうして町会議員に当選してから、直接関係し、一生懸命次のような問題に取り組みました。
- 伝染病院を整備する。
- 遺蹟図書館をたてる。
- 田崎草雲の遺跡や足利学校を守る。
- 東武鉄道を通じさせる。
- 足利高等女学校や足利中学校を開く。
- きれいな水が水道から出るようにする。
- 中橋をかける。
- ばんな寺を守っていく会を作る。
など数多くにのぼっています。
後に政治からは引退しましたが、絵画やお茶、盆栽、俳句などでも活躍しました。萬太郎は、1944年(昭和19年)、73歳でなくなりました。
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