磯部安次郎は、1870年(明治3年)4月に足利郡山下村の大地主(土地の持ち主)、生糸商初代岡嶋忠助の弟の生糸商平助の子として生まれました。ものの感じ方がすぐれていて、ものわかりの早い子として育ち、漢学(中国の学問の一つ)を学び、また田崎草雲に絵をならいました。大人になった時に、田沼の旧家(古い伝統を持つ家)磯部家を継ぎ、名まえが磯部になりました。しかし名まえを継いだだけで、生活の中心は足利にありました。
二代忠助が岡嶋家を継ぎ、岡嶋家は織物製造業を始めました。はじめは日本国内に売る織物をつくったようですが、そのうちに輸出用絹織物を自分の工場で工女(工場で働く女の人)を雇ってつくるようになりました。この岡嶋のつくる輸出織物を外国人貿易商(日本のものを外国で売る人)に売る仕事が、初代磯部安次郎の仕事であり、1894年(明治27年)にはじまりました。このころの安次郎は、多くの仕事をしてゆたかになった足利の若い人たちとの交流を熱心にしました。荻野萬太郎とは足利友愛義団の設立(計画して作ること)に努力しました。 また「足工50年史」には、栃木県工業学校の評議員として、学校に協力したと書かれています。
日清戦争が日本の勝利で終わった後の1897年(明治30年)、1898年(明治31年)は、足利での輸出織物がさかんなころでした。しかし、一番売れている絹織物のつくりかたは、相変わらず古い時代おくれの方法でした。外国人にたくさん売れる輸出絹織物工業に、農商務省(農業や商業に関する国の仕事をするところ)はやっと注目し、1899年(明治32年)には足利から近藤徳太郎(工業学校長)、岩本良助(製造家)、そして安次郎の3人が、国から命令されて、ヨーロッパに行くことになりました。3人は1899年(明治32年)4月に神戸を出発、マルセイユ港(フランスの港)についたあと、フランス、イタリア、オランダの絹織物産業を見て調べました。安次郎は同じ年のおわりごろに、さらにイギリス、アメリカにいき、調べを続け、次の年の12月に日本に帰ってきました。
安次郎が外国で見て調べたことで、ためになったことが二つありました。1つめは、帰ってきた後、本家の二代岡嶋忠助に、新しい方法の染色(色を染める)工場として、両野染色合資会社をつくらせたことです。鹿島町にある明治機械足利工場の前の工場がこれにあたります。この工場には農商務省も外国から買った機械を貸しました。2つめは、日本の輸出織物は、ヨーロッパに出すよりアジア、特にインドに出した方がよいということがわかったことです。
1901年(明治34年)に安次郎は岡嶋から独立し、磯部商店をつくりました。本店を足利に置き、支店を横浜、出張所を桐生に置きました。そして、織物輸出を本格的に始めたのでした。桐生、足利の機業家(織物をつくる人)と特別に約束し、両毛の高級な絹織物の輸出を行いました。大正になると、さらに更紗織物の輸出が増え、、インドから南の方の地域へ、たくさん持っていきました。ヨーロッパで戦争が起こり、世の中が豊かになってくると、磯部商店の輸出額は4〜500万円になりました。綿織物の商売もだんだんふえていきました。
1912年(大正元年)には、足利の先輩、堀越善重郎の後を継ぎ、横浜輸出織物同業組合(横浜で織物を輸出する人たちの集まり)の組合長となり、1919年(大正8年)までやっていました。1917年(大正6年)に出された「横浜社会辞彙」にのっている安次郎は、「織物の種類を多く見ていて、品物の良さがわかり、いつも調べたり、研究したりして、インドとの貿易をすすんでした人」であると書かれています。
1919年(大正8年)に、安次郎はずっと前からの夢であった、横浜撚糸織物株式会社をつくり、すぐれた輸出絹織物の一貫製造(糸を作ることから織物を織るところまでの仕事を全部自分でやること)に乗り出しました。井戸ヶ谷に近代工場(新しいしくみの工場)が建てられ、安次郎が専務、そしていっしょにヨーロッパに行った近藤徳太郎が常務になりました。近藤は1917年(大正6年)に工業学校をやめています。工業学校からは白沢侯郎もきました。
1923年(大正12年)の関東大震災(関東で起こった大きな地震)で、安次郎は予想もできないくらいの大きな被害を受けました。磯部商店の被害のほかに、スタートしたばかりの織物工場の全滅という大きな被害でした。安次郎は横浜市からお願いされ、市の震災復興(大震災のあとでまちをもとのようにつくり直すこと)の中心人物として働きますが、病気にかかり、次の年、全市民に惜しまれながら亡くなりました。
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