明治時代後半の足利織物業の近代化(昔ながらの古いやり方を変えて新しくすること)、技術革新(新しい技術にしていくこと)につくした近藤徳太郎もその一人です。近藤は栃木県工業学校(現在の足利工業高等学校)の最初の校長として、1895年(明治28年)から1917年(大正6年)まで満22年間活躍しました。そして出身地の京都にもどることなく、1920年(大正9年)足利でなくなりました。墓は一生をかけてそだてた足利工業高等学校の近くにある長林寺にあります。
近藤は1856年(安政3年)に京都今出川に生まれ、小学校卒業後京都府フランス語学校に学び、1873年(明治6年)卒業、その後1877年(明治10年)まで東京勧農局で製糸(糸の作り方)と撚糸を学びました。1877年(明治10年)11月から1882年(明治15年)5月まで、京都府の命令でフランスのリヨン織物学校に留学(外国に住んで勉強すること)しました。このとき、絹織物の原料から製品になるまでの全部のながれを学ぶことになりました。帰国後、京都府技師(専門の技術をもった人)として活躍していましたが、1887年(明治20年)から1年間もう一度京都府の命令で、ヨーロッパやアメリカへ行きました。その後、京都織物会社・京都西陣・三高、同志社・京都市染色学校などと交流しました(足工五十年史)。
1895年(明治28年)4月、近藤は国や栃木県、足利郡、足利町の強い願いで、栃木県立工業学校の校長として足利にやってきました。機業組合でつくった足利織物講習所は、この年、栃木県の工業高校として新しく出発しました。近藤に足利へ来てもらうことに成功したのは、市川安左衛門、川島長十郎、4世木村半兵衛らの力でしょう。
当時足利織物のうち輸出用絹織物の生産はとてもさかえていて、国もお金をかせぐ大切な輸出品として強く認めるようになりました。しかし、技術上の進歩ははやく、新しい技術を開発することは、まっさきにやらなければならないことでした。織物講習所を中心とする今までの方法では、輸出絹織物の品質(品物の性質)を良くすることにはすでに限界でした。また国内の織物の仕事をしている人々の間でも、風通御召(織物の一つ)など三井呉服店の強くすすめた高級美術織物の開発には新しい技術と指導者が必要でした。
近藤は1897年(明治30年)には機業組合と県、郡、町の協力で工業学校を今福町の現在のユニイースト会社工場のところから西宮の地にうつし、もっと発展させようとしました。この年、西小学校を会場かいじょうにして大きくにぎやかに行った一府六県連合共進会では、近藤がいた足利織物界は競技会で上位(上の方の順位)を独占しました。近藤自身も審査官として大活躍しました。
1899年(明治32年)4月から翌年1月にかけ、国、県の命令でフランス、イタリア、オランダに行って、3度目になる織物の視察(その場所に行って実際に様子を調べること)をしました。この時は製造業の岩本良助、輸出業の初代磯部安次郎も同じ資格で近藤といっしょに行きました。足利工業高等学校にのこる近藤の「渡欧日記」の中に、三人は各地で熱心な視察と勉強、サンプル(見本)の収集(集めること)をしたことが書かれており、その一生懸命さには驚くばかりでした。パリでは市川安左衛門もいっしょに行動しています。
近藤帰国後の足利の明治30年代は技術がどんどん新しくなっていった時代であり、それらの仕事の多くに近藤は活躍をしています。1907年(明治40年)からは、栃木県図案調整所の所長もやるようになりました。
工業学校をやめたあと、近藤は磯部といっしょに、絹織物の一貫製造会社(横浜撚糸織物株式会社)を横浜でつくり、仕事をすることとなりますが、このときすでに病気になっていました。
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