鈴木千里は江戸時代の終わりに足利で洋学を広めた人です。千里は蘭医(オランダの医学を学んだ医者)であるだけでなくこの地方の尊皇攘夷運動の中心人物だったともいわれています。
千里は1807年(文化4年)米沢藩士長沼多仲の家に生まれています。同じ藩の藩士だった鈴木氏の子どもになり鈴木というみょうじを継ぎましたが、当時江戸にいた蘭学者坪井信道(誠軒)に教わり、蘭法(オランダの方法)の医学を修めました。このころの千里はとても読書好きで、一日中机に向かってあきることを知らなかったといいます。おさないころからの学問好きでもありました。先生の坪井信道は当時の江戸で「診候大概」「製煉発蒙」などの訳者(外国語を日本語になおす人)としても知られている有名な蘭学者(オランダの学問を学ぶ人)の1人でした。後に適々斎塾を大阪に開き、大村益次郎をはじめ、多くのすぐれた才能を持つ人を育てた緒方洪庵もまたその塾で学んでいます。
成長して父と共に米沢藩に仕えましたが、江戸屋敷ではたらくようになり、江戸で蘭医としても知られるようになりました。その後、先生の坪井信道が萩藩士たちに蘭学を教えていたからかどうかはわかりませんが、長州藩主毛利侯のねがいで毛利侯のところではたらきました。1853年(嘉永6年)、ペリー来航(ペリーが日本に来たこと)の年幕府は禁令(外国の学問を勉強することを禁止したこと)を出し、蘭学者たちをとりしまったため、千里も江戸を追放されることになりました。そのため、千里は昔の知り合いのそのころ上州邑楽郡三林村の豪農弥五右衛門の家にかくれました。その間、長州や水戸などの尊王派(天皇を中心とした国つくりをめざす人)と手紙で意見を交換し、外国の学問の大切さを確かめ合いました。その後、毛利侯が千里を足利藩主戸田氏にお願いしたため、足利新田町(現通1丁目〜通4丁目)にうつり住んで、ここで生徒を集め、学問を教えました。足利に住んでいたのは1854年(安政元年)のころからですが、小俣の木村半兵衛、桐生の佐羽吉右衛門らがよくその生活せいかつを助けたといいます。 足利に住んでいる間は、オランダ医者と呼ばれ、それまで不治の病気(なおらない病気)といわれていたものまでなおすなど名医としての人気が高かったようです。千里は足利に種痘を広めようとしましたが、一般の人がこれを恐れて種痘をうける者がいないので、まず自分の家族に種痘をうち、人々のおそれをなくしたあと、他の人にすすめたといわれています。そのため足利地方における種痘の開祖(はじめて広めた人)であるともいわれています。
織物機械製作で知られている初谷長太郎がその自叙伝(自分の人生を書いた本)の中で「時々、蘭医、鈴木氏来り、鉄砲、テレグラフ(電信・電報)、汽船の事など、師匠と対話するを聞き、甚だ面白く感じたり(ときどき、オランダ医者の鈴木氏がてっぽうやテレグラフ、汽船のことを師匠と話しているのをきいて、とてもおもしろく感じました)」と書いていることをみても千里がいかに博識多才(ものごとをよく知っていていろいろな才能があること)であったことが知られます。 千里は1858年(安政6年)に亡くなっているので、足利に住んでいたのはそう長くはありませんが、その残した足跡は大きいといえます。
その子どもに千里の後を継いで、藩医になった鈴木敬哉、天狗党に参加した刈谷三郎がいます。
|