長谷川作七
(はせがわさくしち)
(1855〜1900)

織物おりもの輸出ゆしゅつ増進ぞうしん寄与きよ
外商がいしょうとの直接ちょくせつ取引とりひきはじめる

 作七さくしちは1855ねん安政あんせいねん)、下野国しもつけのくにいま栃木県とちぎけん安蘇郡あそぐん戸奈良とならまれ、ちいさいころの名前なまえ山口やまぐち作七さくしちといいました。大人おとなになってから、足利町あしかがまち長谷川はせがわ吉兵衛きへいどもとなり、苗字みょうじ長谷川はせがわになりました。長谷川家はせがわけはご先祖せんぞさまのころからずっと織物おりものをつくる仕事しごとをしていて、とくに木絹縮もめんちぢみ縮古しぼこ」(木綿もめん織物おりもの)はとてもたか値段ねだんられていました。しかし、1882ねん明治めいじ15ねん)ごろからは日本にほん景気けいきわるくなったので、外国がいこくけて織物おりものることにしました。
 作七さくしちはか法玄寺ほうげんじ巴町ともえちょう)にあります。そのはかには作七さくしちが「華綾文絹」をつくり、そのきぬいろがとてもきれいで、そして外国がいこくではとても人気にんきがあったといてあります。
 作七さくしちはこのすばらしい織物おりものって横浜よこはまきました。そして1885ねん明治めいじ18ねん)8がつにはメンテルソン兄弟商会きょうだいしょうかいという会社かいしゃ商売しょうばいをする約束やくそくむすびました。とくちぢみ羽二重はぶたえ(なめらかでつやのあるうすいきぬ織物おりもの)の評判ひょうばんかったようです。堀越善重郎ほりこしぜんじゅうろうがとりもって横浜よこはまのローゼンソールという商人しょうにん商売しょうばいはじめた岩本良助いわもとりょうすけおなじように、作七さくしちのなしとげたことは、たいへん意味いみのあることだったといわれています。
 作七さくしちのつくる絹織物きぬおりもの日本にほん外国がいこくどちらでも評判ひょうばんがよく、いろいろなところでひらかれた博覧会はくらんかい何回なんかい表彰ひょうしょうされました。1890ねん明治めいじ23ねん)のわりごろ、日本にほん景気けいきがまたわるくなると、それまで国内こくない商売しょうばいをしていたひとがたくさん外国向がいこくむけの織物おりものをつくるようになりました。しかし、その織物おりものしつはあまりよくないものがおおく、そのことが問題もんだいとなりました。作七さくしちおな仕事しごとをしていた初代しょだい木村浅七きむらあさしち岩本良助いわもとりょうすけ二代にだい岡島忠助おかじまちゅうすけ川島長十郎かわしまちょうじゅうろう秋間為八あきまためはち関田応助せきたおうすけたちと相談そうだんし、1891ねん明治めいじ24ねん)に足利あしかが輸出ゆしゅつ組合くみあいをつくりました。作七さくしちはこの組長くみちょうえらばれて、とおり丁目ちょうめ事務所じむしょをつくり、とにかく外国向がいこくむけの織物おりものしつげることに努力どりょくをしました。仕事しごとけたり、織物おりものったりすることは全部ぜんぶこの組合くみあいとおすこととし、外国向がいこくむけの仕事しごとをする会社かいしゃをすべてこの組合くみあいれさせました。1893ねん明治めいじ26ねん)、足利あしかがおおきな取引とりひきをしていたローゼンソール商会しょうかい法律ほうりつをやぶるような仕事しごとをしたので、組合全部くみあいぜんぶでこの会社かいしゃ商品しょうひんわないようにしました。また、外国がいこくとの仕事しごとのやりりについては、日本人にほんじん直接ちょくせつおこなうべきだとかんがえました。そのために1894ねん明治めいじ27ねん)、堀越善重郎ほりこしぜんじゅうろう堀越商会ほりこししょうかいをつくるときに、作七さくしち秋間あきま川島かわしまたちといっしょにおかねうことにしました。堀越商会ほりこししょうかい渋沢栄一しぶさわえいいちなどの有名ゆうめいひとからおかねしてもらい、外国がいこくとの商売しょうばいおおきくするのにだいかつやくしました。
 1894ねん明治めいじ27ねん)の五二会ごにかい足利あしかが支部しぶがつくられるときも、作七さくしち積極的せっきょくてき協力きょうりょくし、足利織物あしかがおりもの外国がいこくでもっとられるように努力どりょくしました。作七さくしちのかつやくはいろいろな世界せかいにもひろがっていきました。1894ねん明治めいじ27ねん)には足利あしかが機業きぎょう組合くみあい理事りじとして市川安左衛門いちかわやすざえもん組長くみちょうたすけ、組合くみあいがますますおおきくなりました。1895ねん明治めいじ28ねん)に足利銀行あしかがぎんこうがつくられると、監査役かんさやくをつとめることになりました。景気けいきわるときの1897ねん明治めいじ30ねん)に足利あしかが綿糸めんし株式会社かぶしきがいしゃがつくられると、初代しょだい社長しゃちょうえらばれました。この会社かいしゃは、とおり丁目ちょうめかれ、原料げんりょう綿めんいと足利あしかがにすみやかに出回でまわるようにしたいままでにはなかったしくみの会社かいしゃでした。
 すこまえにもどりますが、1887ねん明治めいじ20ねん)には、作七さくしち足利あしかが町会ちょうかい議員ぎいんえらばれました。さらに、1892ねん明治めいじ25ねん)3がつ選挙せんきょ栃木とちぎ県会議員けんかいぎいん当選とうせんしました。県会議員けんかいぎいんを1893ねん明治めいじ26ねん)5がつにやめましたが、その4年後ねんごには郡会議員ぐんかいぎいんになりました。
 このようなさまざまなおこないがみとめられて、1899ねん明治めいじ32ねん)12がつには、作七さくしち足利あしかが町長ちょうちょうえらばれました。作七さくしちひとびとの期待きたいにこたえることができました。しかしよく1900ねん明治めいじ33ねんん)4がつ不幸ふこうにして病気びょうきにかかり、46さいくなりました。