須永嵐斎
(すながらんさい)
(1779〜1852)

俳人はいじんとして「旅日記たびにっき」をのこした

 須永嵐斎すながらんさいは、1779ねん安永あんえいねん)、いま旧足利市街きゅうあしかがしがいまれました。大人おとなになってからは、織物おりもの仕事しごとをしていました。その仕事しごとをしながら、俳句はいく(5・7・5の17おん)もいていました。小佐野真砂岐(こさのまさき)や、金令舎道彦きんれいしゃみちひこ夏目成美なつめなるみという人達ひとたち俳句はいくおしえてもらいました。嵐斎らんさいは、1833ねん天保てんぽうねん)、54さいになったときいえ織物おりもの仕事しごと子供こどもまかせ、日本全国にほんぜんこくたびしました。全国ぜんこくたびしたので、たくさんの俳句はいくつくひとうことができました。1833ねん天保てんぽうねん)に「関西かんさい九州一巡きゅうしゅういちじゅん」、1838ねん天保てんぽうねん)に「奥羽信越記」、1842ねん天保てんぽう13ねん)に「武相道記」の旅日記たびにっきのこしています。
 嵐斎らんさいは、1852ねん嘉永かえいねん)にくなりました。その嵐斎らんさいをしたって俳句はいくかいひらかれました。各地かくちからあつまったそのかず百数十人ひゃくすうじゅうにんにもなったそうです。その俳句はいくかいときにできたのが「ゆきあかり」というほんでした。このほんなかには、嵐斎らんさい俳句はいくが114各地かくち俳人はいじん二百十余にひゃくじゅうよがよせられています。
 嵐斎らんさいくなったのち子供こども芳徳父嵐斎ちちらんさい歌碑かひを、ばん阿寺なじ境内けいだいてました。