須永金三郎は、1866年(慶応2年)今の足利市通三丁目に生まれました。ふるさとの新聞「足利新報」を初めに出した、須永平太郎の弟です。
旧東小学校を卒業した金三郎は、しばらく家の織物業を手伝っていました。1881年(明治14年)に父が亡くなったのをきっかけに、東京へ出て、東京専門学校(今の早稲田大学)で政治と経済を勉強しました。
金三郎の才能は、学生の頃からすばらしく、博文館という出版社の社長に認められて、次のような本やその他たくさんの本を出しています。
1888年(明治21年) 「大日本織物誌」
1889年(明治22年) 「新撰百科全書」のうちの「倫理学」「財政学」
1890年(明治23年) 「万国歴史全書」のうちの「英国史」
このころ、渡良瀬川の異常な変化を知った金三郎は、同級生の長祐之といっしょに鉱毒の問題に強い関心を持ち、1887年(明治20年)東京専門学校で、足尾の鉱毒の問題について意見を発表しました。また、足利に帰るたびに、住民にこの問題についてうったえました。このような活動は、田中正造が国会で鉱毒の問題を取り上げる4年前のことでした。
1890年(明治23年)、東京専門学校を卒業した金三郎は、博文館で本や雑誌を出す仕事をした後、1895年(明治28年)、足利にもどり、「両毛新報」という新聞を出して、鉱毒問題に力を入れて取り組みました。1898年(明治31年)には「鉱毒論稿第一編・渡良瀬川」という本を出しました。この中で、金三郎は家が織物の仕事をしていたので、鉱毒と染色(織物に色をつけること)の関係についても書いています。
金三郎は、新聞の仕事を通して、鉱毒の被害をうけた人々を助けることと、地元の産業でいろいろな物が作られることに努力していました。1901年(明治34年)、金三郎の提案がきっかけになって、足利に「足尾鉱毒救済会」が作られました。鉱毒救済会は、鉱毒の被害をうけた土地の様子を見て回ったり、被害をうけた人を助けるお金を集めたり、鉱毒問題についての意見や考えを出し合う会を開いたりと、困っている人を助けるための活動をたくさんしました。
1910年(明治43年)に足利にもどった金三郎は、西宮町で養鶏業(肉やたまごをとるためにニワトリをかう仕事)をしながら、足利学校や田崎草雲の研究をしました。そして、「足利学校遺蹟考」「草雲先生小伝」など、たくさんの本を残しています。
1923年(大正12年)、58才で金三郎は亡くなりました。お墓は、西宮町の高徳寺にあります。
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