足尾銅山と松木村(渡良瀬川上流)の歴史

 足尾銅山は、1610年(慶長15)に二人の農民が銅山を発見したのが始まりといわれています。以降、約400年にわたり堀り開いた坑道(こうどう)の長さは1234kmにも及びます。これは、およそ、東京から九州の博多までの距離に相当します。

 長い間、多くの人がかかわり、日本の近代化を支えてきました。

 足尾の人口は、ピーク時で4万人近くにもなりました。人々は、山奥での生活にありながら、比較的豊かに暮らしていたといわれています。

 しかし、その後も足尾銅山の発展とともに、煙害(えんがい)はひどくなりました。明治30年には、製錬所に煙害除去を目的とする脱硫塔(だつりゅうとう)が完成しましたが、松木村では山火事などの影響もあり、山林が枯れ、農業もほとんど収穫がない状態になってしまいました。
 そして、明治35年、松木村は廃村となり、また、昭和48年に足尾銅山閉山となりました。

 右の写真は、日光市の指定遺跡になっている「間藤(まとう)水力発電所跡」です。明治10年より足尾銅山を経営してきた古河市兵衛は、今までの銅山の動力源である薪や木炭に代わるものとしてドイツ人技師の勧めにより、この地に水力発電所を完成させました。

 このように、山の木々をを切らずに、環境のことを考えて、動力を得る方法を積極的に取り入れていました。

資料協力 足尾環境学習センター
       足尾歴史館
       足尾銅山観光管理事務所

 ここに紹介した歴史はほんの一部分です。詳しく学習してみたい人はリンクのページから情報を集めてください。

 日光市足尾町には、この鉱毒事件や松木村のことを忘れないようにと足尾環境学習センター等があります。とてもすばらしい施設ですので一度行ってみてはいかがでしょうか?

現在の旧足尾精錬所

 足尾銅山は、日本の近代化を支えてきたすばらしい歴史があります。
また一方では、
足尾鉱毒事件に代表されるような公害発生の歴史も持っています。
渡良瀬川とも深く関係のある足尾について、さまざまな視点から見て、正しく理解していきましょう。

 足尾銅山では、次々と大きな鉱脈が発見され、日本を代表する銅山へと成長し、町に活気が満ち溢れるようになりました。しかし、その一方では、日本の公害の原点ともいわれる鉱毒問題が発生していきました。松木村では、銅山から出る煙によって山の木々が枯れ、鉱毒により渡良瀬川の水が汚れ、農作物にも被害が出てきました。

しかし、鉱毒について何もしなかったわけではありません。
世界最先端の装置を取り付けたり、鉱毒のたれ流しを防ぐ沈殿池を設けたりしました。