山下八八
(やましたやはち)
(1690〜1775)

 山下八八やましたやはちは、1690ねん元禄げんろくねん)に、山下村やましたむらいま山下町やましたちょう)の平石まれました。山下やましたというのは、山下村やましたむら出身しゅっしんであったためつけたで、もとは須藤八三郎というでした。おおきくなってからは、三郎兵衛名前なまえをかえました。15さいとき西宮にしのみや神社じんじゃのすもう大会たいかいました。八三郎は、このときはじめて土俵どひょうがりましたが、相手あいてになるひとはいませんでした。その江戸えどいま東京とうきょう)にき、わざをみがいてそのすごいちからしました。1717ねん享保きょうほうねん)、江戸城えどじょうの8代将軍だいしょうぐん徳川吉宗とくがわよしむねまえですもうをとり、てきた力士りきし全部投ぜんぶなげとばしました。将軍しょうぐん吉宗よしむねは、おおいに八八やはちという名前なまえをあたえました。このころ日本にほんには64のくにがあり、そのなかでただ一人ひとり大力士だいりきしという意味いみです。かけざん九九くくのできるひとならば、その意味いみかるでしょう。その全国ぜんこくあるまわり、京都きょうとでは、1725ねん享保きょうほう10ねん)に京都御所きょうとごしょ(そのころの天皇てんのうまい)でのすもう大会たいかいまえもってもうしこまず、当日とうじつとつぜん参加さんかし、力士りきしのこらずげとばしました。このことにより、日下開山くさかかいざん在土山ざいとやま八八やはちのることがゆるされました。日下開山くさかかいざんとは、天下無敵てんかむてき力士りきし(だれもかなわないくらいつよ力士りきし)という意味いみで、横綱よこづなのことをさします。八八やはち身長しんちょうは6しゃくすんあったとわれますが、現在使げんざいつかっている単位たんいになおすと、2m以上いじょうもあったことになります。とてもおおきなひとだったことがかります。
 八八やはちは、1755ねん宝暦ほうれきねん)にふるさとの山下村やましたむらかえり、1775ねん安永あんえいねん)に86さいでなくなりました。