本島雄尾
(もとじまゆうび)
(1778〜1845)

足利あしかが俳句はいくかい中心ちゅうしん人物じんぶつとして活躍かつやく

 本島もとじま雄尾ゆうび八郎兵衛はちろべえ)は、1778ねん安永あんえいねん)に野田村のだむらいま野田町のだちょう)の蜂須賀家はちすかけまれました。そして、足利あしかが坂町さかまち今のとおり丁目ちょうめ)の本島家もとじまけ養子ようしになりました。
 本島家もとじまけは、本陣ほんじん大名だいみょうなどがまった宿しゅくのこと)とよばれ、旅行中りょこうちゅう殿様とのさまめる家柄いえがらであったようです。祖父そふ俳人はいじん俳句はいくつくひと)であった関係かんけいから、雄尾ゆうび子供こどもころから俳句はいくしたしんでいました。そして、千住関谷せんじゅせきや東京都とうきょうと足立区あだちく)にある秋香庵巣兆しゅうこうあんそうちょう学校がっこうはい俳句はいくまなびました。秋香庵巣兆しゅうこうあんそうちょう学校がっこうはいっても、その才能さいのうはすばらしく、ほかの俳人はいじんからもしたわれていたようでした。
 1845ねん嘉永かえいねん)に72さい雄尾ゆうびくなったのち、その子供こども二郎じろうにより、西宮町にしのみやちょう三宝院境内さんぽういんけいだい墓碑ぼひ(おはか)がてられています。