国定彌平
(くにさだやへい)
(1865〜1909)

キリスト教の司祭として社会につくす

 国定彌平くにさだやへいは、1865ねん慶応元年けいおうがんねん)10がつ15にち名草村なぐさむら丸木まれました。ちちからだよわく、彌平やへいが母親ははおやのおなかのなかにいるときになくなってしまいました。こどものころの彌平やへいは、学校がっこうまえいえにわそうじやくさかりをしたり、いえ手伝てつだいをしたり、父親ちちおやがいなくてもがんばっていました。また、小学校しょうがっこう卒業そつぎょうしても、勉強べんきょうすることがきだったので、ちかくくのおてらなどにいって勉強べんきょうおしえてもらっていました。
 1883ねん明治めいじ16ねん)、19さいとき北郷村きたごうむら小学校しょうがっこう先生せんせいになりました。あるとき彌平やへいは、フランスじん足利あしかが教会きょうかいキリストきょうひろめているのをきき、日本にほんでは、キリストきょうはうけいれられないことをはっきりおうと、ともだちとかけました。フランスじんのカディヤック神父しんぷって、はなしくうちに、彌平やへい反対はんたいにキリストきょうおしえにとても感動かんどうしました。そして、それから日曜日にちようびには教会きょうかいかよって、キリストきょう勉強べんきょうをするようになりました。
 1890ねん明治めいじ23ねん)には、長崎ながさき大浦おおうら天主堂てんしゅどう神学校しんがっこう入学にゅうがくし、その東京とうきょう築地つきじ公教こうきょう神学校しんがっこうはいって、キリストきょう勉強べんきょうをしました。そして、1897ねん明治めいじ30ねん)にキリストきょう司祭しさいになりました。32さいときです。
 埼玉さいたま東京とうきょう教会きょうかい司祭しさいとして人々ひとびとをすくうための努力どりょくをしながら、「耶蘇基督イエスキリスト模範もはん」という外国がいこくほん日本語にほんごにやくしたり、自分じぶんほんいたり、キリストきょうひろめる活動かつどうすすめました。
 1909ねん明治めいじ45ねん)、彌平やへいは45さいでなくなりました。最期さいごときまで、彌平やへい人々ひとびとしあわせをいのっていました。


参考 「国定彌平傳」(宇賀神利夫)