影山禎太郎は、下野新聞社の一番初めの社長です。1857年(安政4年)11月11日に足利市菅田村の名主の家に生まれました。禎太郎は「天資英敏果敢」(生まれつき頭の回転が速く、思い切りがよい)<墓碑銘>と周りの人々からとてもほめられるほどでした。大きくなってからは旧足利藩の元家老で学者として有名な川上広樹に勉強を教わりました。ここでも禎太郎の評判は大変高かったといわれています。のちに東京へ行き福沢諭吉先生の慶應義塾で勉強しました。
禎太郎は、明治10年(1877)西南戦争が起こった年に、おじいさんのあとをついで区の副戸長となり、このほか小学校の副校長、学務委員、村会議員や議長(菅田村)などに選ばれてなりました。明治12年には、足利・梁田郡長が新しい郡の役所をたてようとして、その工事のお金を郡の町や村に出させようとしましたが、禎太郎は「役所のお金でつくるべきものである」と反対運動をはじめました。禎太郎の意気込みで郡長の計画を中止させるところまでいきました。しかし結局、郡長がむりやりつくることにしてしまいましたが、禎太郎はお金を出すことを断りつづけました。このことは栃木県の中でも大きな話題となったそうです。
明治15年のおわりごろ、栃木新聞社社主である木村半兵衛(四代目)とその会社を作るためのお金を出した小里仁、広瀬孝作たちは、より良い後継ぎを探していました。そして、禎太郎に後継ぎになってもらいたいと言って来ました。26歳のときです。禎太郎はこれにこたえて、次の年の16年3月には会社のすべてをまとめることをまかされました。
明治17年1月、栃木県令の三島通庸は県庁を栃木から宇都宮に移動しました。禎太郎はこれにあわせて、新聞社を宇都宮に移そうと決めました。宇都宮の下野旭新聞に協力を呼びかけました。そして、同年3月7日、下野新聞がつくられました。下野新聞を発行した禎太郎は「不偏、不党、中正」(どちらにもかたよらず中立の立場をとること)という会社のめあてを定め、栃木県の社会をより良くすることや産業をさかんにすることをいちばん重要に考えることにしました。新聞に、国をまとめることを多くのせるのではなく、ものの売り買いや農業、工業などを大事に考えた禎太郎の決意には、生まれ育った足利が、産業が盛んであるという環境が大きく関係していると思われます。
こうして禎太郎のアイディアと努力は実をむすび下野新聞はますます大きくなりました。特に日露戦争の後には戦前の七千部から二万部にまで発行した数が増えました。この間、禎太郎は国や県をまとめる仕事である政治活動にも興味を持ちはじめました。明治17年に県会議員になり、21年にもう一度選ばれています。その後、国会議員選挙では木村半兵衛をすいせんし、田中正造とあらそったことは有名です。
最近、足利市内で禎太郎あてにだされたの名士(それぞれの分野を代表する人)の手紙が発見されました。大部分は明治21年ごろから24年ごろまでのものであり、差出人は犬養毅(総理大臣)や尾崎行雄をはじめ、栃木県の自由民権運動で有名な、横堀三子などでした。その中の犬養毅からの一通には、栃木県知事の溝部は自分と同じ大学の出身(慶應義塾)であり、よく知った中であることを伝えています。この手紙によって、犬養毅と禎太郎が古くからの知り合いであることがわかります。この二人に溝部を加えれば三人とも慶應義塾で福沢諭吉先生にいろいろ教えてもらっていたことになります。
禎太郎は、明治45年2月22日、肝臓病のため新聞に一生をささげた一生を終えました。その時56才でしたが、多くの人々がわたしの死を悲しみました。お墓は現在も菅田町にあります。
お墓の名前には「社務を益々拡張し余暇を公共事業に尽力す」と記されています。
栃木県の政治と新聞の世界で活躍した下野新聞社初代社長である禎太郎の名は、長く足利市民だけでなく栃木県民に語り継がれています。
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