市川安左衛門は、1842年(天保13年)今の北郷地区田島町の名主の家に生まれました。足利と江戸(今の東京)で教育を受け、21歳の時、父の平左衛門が亡くなったので、田島村戸田藩領の名主になりました。
25歳の時、それまで国をまとめる仕事をしていた江戸幕府がなくなり、新しく明治政府ができました。政府は、それまでの「年貢」による税のとりかたをやめて、税金(お金)を納めさせる新しい方法をとることにしました。これを「地租改正」といいます。安左衛門は、田畑の面積をはかったり、そこからとれるものの値段を計算したりして、地租(税金の額)をきめました。農民の代表として地租改正の仕事に大きな役割をはたしました。
1879年(明治12年)県会議員になり、1885年(明治18年)にやめるまで、次のような仕事にかかわりを持ち、足利だけでなく栃木県のためにも大きな力となりました。
・日光東照宮の保存(いつまでもそのままでとっておくこと)
・西宮町に県立足利病院を新しくつくる
・那須野が原の開墾(山や野を切り開いて、田や畑をつくること)
・伊勢町の大通りの完成
などの仕事をしました。
安左衛門は、政治のことだけでなく、足利でいろいろなものがどんどんつくられるようになるようにするためにも力をつくしました。
1879年(明治12年)に、足利で初めての会社組織の織物会社を江川町につくりました。1881年(明治14年)には、東京内国博覧会の委員となり、足利織物をたくさん出品しました。また、当時のアメリカ合衆国大統領グラントと交流があり、足利でつくられた絹織物を贈って、輸出を増やそうと努力をしたことも知られています。
県会議員をやめてからは、足利織物がどんどんつくられるように、さらに努力しました。1888年(明治21年)には、新しい種類の織物や機械を発明しました。1892年(明治25年)には、輸出用絹織物の工場を作りました。この工場は、近代工場(新しいしくみの工場)の第一号として、足利の織物工業がよりよくなるために役立ちました。このようなことから、1898年(明治31年)には足利織物同業組合の組合長に選ばれました。
足利最初の新聞社「足利新報旭香社」をつくったり、県立工業高校を新しくつくったりするなど、足利市の文化や教育に大きな影響をあたえた安左衛門は、1910年(明治43年)この世を去りました。
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