岡田東塢
(おかだとうう)
(1791〜1833)

漢詩人かんしじんとして活躍かつやく

 岡田東塢おかだとううは、1791ねん寛政かんせいねん足利郡あしかがぐん五十部村よべむら代官だいかん江戸時代えどじだいむら仕事しごとをするひと)のいえまれました。
 漢詩人かんしじんとして、足利あしかがだけでなくほかのところでも有名ゆうめいでした。どものころは勉強べんきょうきで、おおきくなってからは、江戸えどいま東京とうきょう)の朝川善庵あさかわぜんあんのところでまなびました。中国ちゅうごくふね日本にほんながいたときも、その中国人ちゅうごくじんとのはなし合いのとき通訳つうやく言葉ことばのちがうひとのあいだにはいって、言葉ことばをいいかえてつうじさせること)をつとめています。師匠ししょうである善庵ぜんあんにも信頼しんらいされ、善庵ぜんあん仕事しごとあとをついで完成かんせいさせました。その九州きゅうしゅう京都きょうと五年ごねんかけてまわり、勉強べんきょうしました。
 いえかえった東塢とううは、どもたちへの教育きょういくちからをそそぎました。漢詩かんしむばかりでなく、もかき、楽器がっき月琴げっきん)もひきました。いえには、ほんをしまっておく場所ばしょをつくり、ほん書画しょがおさめておきました。足利あしかがおとずれる文人ぶんじん小説しょうせつなどをかくひと)は、東塢つおういえおとずれ、そのほん書画しょがていきました。
 東塢とううは、1833ねん天保てんぽねん)、44さいわかさでくなりました。