中山太郎
(なかやまたろう)
(1876〜1947)

 中山太郎なかやまたろう例幣使街道れいへいしかいどう梁田宿やなだしゅくで、雑貨商ざっかしょういとな相場家あいばけとしてまれました。どものころ中山家なかやまけ養子ようしとなり、機織はたおりをしながら勉強べんきょうつづけたといわれます。田中正造たなかしょうぞう紹介しょうかい東京とうきょうにでて、東京とうきょう専門学校せんもんがっこう現在げんざい早稲田わせだ大学だいがく)にはいりました。そのころは、学業がくぎょうよりも民俗学みんぞくがく関係かんけいほん生活せいかつをしていたようで、民俗学みんぞくがく大家たいかである柳田国男やなぎたくにおに、「図書館としょかんじゅうほんもうとしたおとこ」と感心かんしんさせたといわれています。
 日露にちろ戦争せんそうがはじまると、「報知ほうち新聞しんぶん」の従軍記者じゅうぐんきしゃとなり、戦況せんきょう報告ほうこくしていました。その編集局長へんしゅうきょくちょうとなり、さらに柳田国男やなぎたくにお紹介しょうかい博文館はくぶんかんというところの編集局長へんしゅうきょくちょうつとめました。このころ、中山なかやま地元じもと梁田やなだ小学校しょうがっこうなどに、書籍しょせきをたくさん寄附きふしました。
 中山なかやま民俗学者みんぞくがくしゃといわれる学者がくしゃとの交流こうりゅうひろく、のち大学だいがくから名誉教授めいよきょうじゅという称号しょうごうをもらいましたが、実際じっさい先生せんせいとしておしえることはしなかったといわれます。そのなかで、民俗学みんぞくがくかんする研究けんきゅう辞書じしょおお出版しゅっぱんしました。とく故郷こきょうかんするテーマから「御厨みくりや神社誌じんじゃし」、「雷神らいじん研究けんきゅうなど研究けんきゅうあらわしました。
 のち中山なかやまのことを「記憶力きおくりょく抜群ばつぐんで,あまりのすごさに恐怖心きょうふしんかんじることさえあった。」といわれるように、たゆまぬ読書どくしょとそれを記録きろくした膨大ぼうだいなノートから独自どくじ民俗学みんぞくがくしました。晩年ばんねん足利あしかがもどり、1947ねん昭和しょうわ22ねん)に病気びょうきでなくなりました。