中山太郎は例幣使街道の梁田宿で、雑貨商を営む相場家の子として生まれました。子どもの頃中山家の養子となり、機織りをしながら勉強を続けたといわれます。田中正造の紹介で東京にでて、東京専門学校(現在の早稲田大学)に入りました。その頃は、学業よりも民俗学関係の本を読む生活をしていたようで、民俗学の大家である柳田国男に、「図書館中の本を読もうとした男」と感心させたといわれています。
日露戦争がはじまると、「報知新聞」の従軍記者となり、戦況を報告していました。その後、編集局長となり、さらに柳田国男の紹介で博文館というところの編集局長も務めました。このころ、中山は地元の梁田小学校などに、書籍をたくさん寄附しました。
中山は民俗学者といわれる学者との交流も広く、後に大学から名誉教授という称号をもらいましたが、実際に先生として教えることはしなかったといわれます。その中で、民俗学に関する研究や辞書も多く出版しました。特に故郷に関するテーマから「御厨神社誌」、「雷神研究」等の研究を表しました。
後に中山のことを「記憶力は抜群で,余りのすごさに恐怖心を感じることさえあった。」といわれるように、たゆまぬ読書とそれを記録した膨大なノートから独自の民俗学を打ち出しました。晩年は足利に戻り、1947年(昭和22年)に病気でなくなりました。
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