茂木富二は、1895年(明治28年)2月1日、製糸業をしている松崎亀六の二男として、今の樺崎町で生まれました。5歳のころには、半紙に絵をかくほど、絵のすきな子でした。高等小学校4年の時、通4丁目の森山東岳図案塾に入学し、学校に通いながら、絵の勉強をしました。富二の書いた作品は人気があり、作品が売れたので、塾の先生にほめられました。
1909年(明治42年)3月に、高等小学校を卒業すると、兄の工場で仕事の見習いをしました。兄の助手となり、朝早くから荷車を引いて、機屋をまわりました。
1918年(大正7年)12月、茂木家のむことなり、松崎から茂木の姓になりました。1919年(大正8年)には、織物製造業をはじめました。富二が一生懸命がんばったので工場は大きくなり、1927年(昭和2年)には、税金をいちばん多くおさめるほどになりました。後に、富二の工場は「モトミクロス工業」という名前になり、今の大町にあります。
また富二は、1934年(昭和9年)には、足利銘仙会長、1935年(昭和10年)には、足利市旗図案の審査委員など、いろいろな役をしていました。また、1941年(昭和16年)から、保護司として、罪をおかしたひとが、社会にうまくもどれるように相談にのったりする仕事もしていました。1942年(昭和17年)には、足利市の市議会議員に選ばれ、議会の副議長もつとめました。
そして、1953年(昭和28年)には、足利赤十字病院後援会長として、病院を大きくするために努力をしました。そのほか、1967年(昭和42年)には、勤労青少年ホーム運営委員、1969年(昭和44年)には、県立足利西高校の振興会長として、教育にも力をつくしました。
富二は、1975年(昭和50年)に80歳でなくなりました。
参考 「茂木富二傳」(宇賀神利夫)
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