籾山唯四郎
(もみやまただしろう)
(1861〜1922)

政治せいじ事業じぎょうなどをおこななかのためにつくした

 籾山もみやま唯四郎ただしろうは、1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん)に下都賀郡しもつがぐん間々田ままだまれました。1884ねん明治めいじ17ねん)に助戸村すけどむら籾山家もみやまけ養子ようしとなりました。
 唯四郎ただしろうは、1890ねん明治めいじ23ねん)から、足利あしかが町議会議員ちょうかいぎいんとなり、旧助戸きゅうすけど小学校しょうがっこう建設けんせつうごきました。1903ねん明治めいじ36ねん)には、郡会議員ぐんかいぎいんになり、郡立ぐんりつ高等こうとう女学校じょがっこう建設けんせつ努力どりょくしました。その足利あしかがになってからは、市議会議員しぎかいぎいんとなりました。また、1920ねん大正たいしょうねん)には、県会議員けんかいぎいんにもえらばれました。
 1910ねん明治めいじ43ねん)に、「織物改良組おりものかいりょうぐみ」をつくり、よいものづくりに努力どりょくしました。足利織物あしかがおりもの協同組合きょうどうくみあい足利染色あしかがせんしょく研究会けんきゅうかい役員やくいんをしながら、自分じぶん織物業おりものぎょうのほかにも、たくさんの会社かいしゃをつくったり、ほかの会社かいしゃ相談そうだんけたりしていました。さらに、学習がくしゅうのためにひつようなおかねをだし、学生がくせいそだてていこうと自分じぶんのおかねして「財団法人ざいだんほうじん籾山育英団もみやまいくえいだん」をつくろうと文部大臣もんぶだいじんにおねがいをしましたが、実現じつげんしませんでした。
 1922ねん大正たいしょう11ねん)に、栃木県知事とちぎけんちじより公益事業功労者こうえきじぎょうこうろうしゃおおくのひと役立やくだ仕事しごとをしたひと)として表彰ひょうしょうされました。しかし、このとし唯四郎ただしろうは62さいでなくなりました。おはかは、助戸すけど定年寺じょうねんじにあります。