上岡た津
(かみおかたつ)
(1890〜1976)

私学教育界しがくきょういくかいの“はは”、なせばなるの精神貫せいしんつらぬ

 たは1890ねん明治めいじ23ねん)10がつ埼玉県さいたまけん南桜井村みなみさくらいむら関口家せきぐちけ次女じじょとしてまれました。むら小学校しょうがっこう高等科こうとうか卒業後そつぎょうご裁縫さいほうならうために東京とうきょうき、東京とうきょう裁縫さいほう教授所きょうじゅじょ生徒せいとになりました。たはそのとき13さいでしたが、近所きんじょ人々ひとびと着物きものったりして毎日まいにち食事代しょくじだいから授業料じゅぎょうりょうまでなんとかかせがなくてはなりませんでした。病気びょうきになり、一時いちじふるさとにかえっていましたが、ふたた東京とうきょうき、東京とうきょう裁縫さいほう女子学校じょしがっこういま東京とうきょう家政大学かせいだいがく)に入学にゅうがくしました。さらに戸板といた裁縫学校さいほうがっこう師範科しはんかいま戸板といた女子短大じょしたんんだい)を卒業そつぎょうし、裁縫さいほうみちひとすじにすすんでいきました。
 大正たいしょうねんがつ巴町ともえちょう私立しりつ足利あしかが裁縫さいほう女学校じょがっこうがつくられ、た先生せんせいすすめられ、そこで先生せんせいをすることになりました。学校がっこうはじまったばかりのころ、生徒せいとは17にんちいさな学校がっこうでした。この学校がっこうをつくった上岡長四郎かみおかちょうじろう校長先生こうちょうせんせいになり、そのほか先生せんせいはた一人ひとりだけでした。裁縫さいほうからひろ知識ちしき礼儀作法れいぎさほうなどまでを、たは、たった一人ひとりおしえ、よる生徒募集せいとぼしゅうのために各地かくちあるくという大変たいへん仕事しごとをしていました。足利あしかがだけにかぎらず、飛駒ひこま氷室ひむろ野上方面のがみほうめんまであしばして熱心ねっしん勧誘かんゆうしました。このためきり下駄げた三日みっかですりってしまったこともあります。
 その校長先生こうちょうせんせい長四郎ちょうじろうとた結婚けっこんし、私立しりつ足利裁縫あしかがさいほう女子学校じょしがっこうは、財団法人ざいだんほうじん足利高等あしかがこうとう裁縫女学校さいほうじょがっこうとなり、153にんもの卒業生そつぎょうせいおくすようになりました。そして、幼稚園ようちえん中学校ちゅうがっこう高等学校こうとうがっこう白鴎はくおう女子短大じょしたんだい設立せつりつと、学校がっこうはどんどんおおきくなっていきました。た努力どりょくみのったのです。たは、その立派りっぱなはたらきによって、昭和しょうわ36ねん藍綬褒章らんじゅほうしょうを、どう40ねん勲四等くんよんとう瑞宝章ずいほうしょう受章じゅしょうしました。たは、「50ねんもやればなにをしてもなんとかなるものです。」と、メガネのおくみをたたえてかたりました。
 たはその、「私学教育界しがくきょうかいはは」といわれ、足利学園あしかががくえん理事長りじちょうになりましたが、昭和しょうわ51ねんがつあさ心筋梗塞しんきんこうそくのため、85さいでなくなりました。た設立せつりつした学校がっこういまもたくさんの学生がくせいまなんでいます。