幕末のころ、折戸(現伊勢町3丁目)にある一軒の家から、たくさんの機織りの音が聞こえてきます。そこでは、5、6人の織女(織物を仕事にしている女の人)の手により南部織ゃ柳川織などの絹織物、絹綿交織物(絹と綿がいっしょに織りこまれた織物)が次々と織り出されていました。この機屋を経営していたのが秋間清久為八です。
秋間家は、長尾家の古いけらいです。主家(長尾家)がなくなったあともずっと足利に住んでいました。清久のおじいさんの芝仙とお父さんの宗賢は、秋間家のことを書いた本(過去帳)に郷医(その土地の医者)と書かれていることから、医者を仕事とする知識人(ものごとをよく知っている人)であったと思われます。宗賢には跡継ぎとする男の子がいなかったため、助戸村の機業家(機織りの仕事をしている人)木村又左衛門の二男清久を一女ケイの婿としてむかえました。清久はのちに輸出織物(外国で売る織物)に活躍した初代木村浅七の叔父さんにあたります。
養父(宗賢)が亡くなったあと、清久は、生まれた家と同じように、機業(機織りの仕事)を始めました。始めた時期はよくわかりませんが、残っている資料によって、1860年(万延元年)には、行っていたことがわかります。足利の織物業は天保の好況期(ものがよく売れた時期)に大きく発展しました。幕末のころは、そのあとをうけて、町内の機織りをしている人だけでも180人あまりの大人数となり、市場へは佐野・邑楽などのほかの地区からも品物が入ってくるというにぎわいでした。また、一方で、もうかったり、損したりするのが多い仕事でもありました。この状況の中で新しく織物業を始めた清久は、秋間家の先祖が名乗っていた為八という名前を名乗り、一生懸命働きました。その結果、1865年(慶応元年)には2400反あまりの販売量を誇る力のある機屋(織物の仕事をする家)に成長し、持っている土地も今までの数倍に増やすなど才能のあるところを>見せました。また、早い時期に輸入綿糸(唐糸‥中国から輸入した糸)を絹綿交織物(絹と綿がいっしょに織りこまれた織物)に取り入れるという新しいことにも進んで取り組みました。
墓石にも「性格がおだやかで、一生懸命仕事をして家を栄えさせた。また、教育や地域をきれいにすること、まずしい人たちを助けることのために自分のお金を使ったので、まわりの人びとにたよられ、とても尊敬されていた」とあります。秋間家の墓地にひとつの立派な灯籠があり、この横の面に「為故秋間清久君(秋間為八さんのために) 明治34年7月 足利東町」と書かれています。まわりの人びとが尊敬していた一つの例でしょう。為八は地域のためにりっぱな働きをしました。1874年(明治7年)の町名変更(町の名前を変えること)のとき、東町を残すために力をつくしたことや、自分が損をしてもほかの人たちのために力をつくしたということで、為八をしたう人びとが1894年(明治27年)に「あなたは東町をつくったすばらしい人です」とほめているほどでした。
また伊勢宮が1868年(明治元年)になくなってしまった時でも、先頭に立ってもう一度伊勢宮を取りもどそうと、もとの土地を買い、その土地を守るなどの活躍をしています。(同神社境内の造営記念碑より)
明治時代になってからもますます活躍していきますが、、子どもである弥一郎為八が成長したころには、家業を譲りました。そして、1900年(明治33年)、73歳で亡くなりました。
|