秋間為八
(あきまためはち)
(1828〜1900)

織物業おりものぎょう手腕発揮しゅわんはっき
伊勢宮いせぐう復興ふっこう力尽ちからつくす

 幕末ばくまつのころ、折戸おりと現伊勢町げんいせちょう丁目ちょうめ)にある一軒いっけんいえから、たくさんの機織はたおりのおとこえてきます。そこでは、5、6にん織女しょくじょ織物おりもの仕事しごとにしているおんなひと)のにより南部織なんぶおり柳川織やながわおりなどの絹織物きぬおりもの絹綿交織物けんめんこうしょくものきぬ綿めんがいっしょにりこまれた織物おりもの)が次々つぎつぎされていました。この機屋はたやを経営していたのが秋間清久為八あきませいくためはちです。
 秋間家あきまけは、長尾家ながおけふるいけらいです。主家しゅけ長尾家ながおけ)がなくなったあともずっと足利あしかがんでいました。清久せいくのおじいさんの芝仙しせんとおとうさんの宗賢そうけんは、秋間家あきまけのことをいたほん過去帳かこちょう)に郷医ごうい(その土地とち医者いしゃ)とかれていることから、医者いしゃ仕事しごととする知識人ちしきじん(ものごとをよくっているひと)であったとおもわれます。宗賢そうけんには跡継あとつぎとするおとこがいなかったため、助戸村すけどむら機業家きぎょうか機織はたおりの仕事しごとをしているひと木村又左衛門きむらまだざえもん二男じなん清久せいく一女いちじょケイの婿むことしてむかえました。清久せいくはのちに輸出ゆしゅつ織物おりもの外国がいこく織物おりもの)に活躍かつやくした初代木村浅七しょだいきむらあさしち叔父おじさんにあたります。
 養父ようふ宗賢そうけん)がくなったあと、清久せいくは、まれたいえおなじように、機業きぎょう機織はたおりの仕事しごと)をはじめました。はじめた時期じきはよくわかりませんが、のこっている資料しりょうによって、1860ねん万延ばんえん元年がんねん)には、おこなっていたことがわかります。足利あしかが織物業おりものぎょう天保てんぽう好況期こうきょうき(ものがよくれた時期じき)におおきく発展はってんしました。幕末ばくまつのころは、そのあとをうけて、町内ちょうない機織はたおりをしているひとだけでも180にんあまりの大人数おおにんずうとなり、市場いちばへは佐野さの邑楽おうらなどのほかの地区ちくからも品物しなものはいってくるというにぎわいでした。また、一方いっぽうで、もうかったり、そんしたりするのがおお仕事しごとでもありました。この状況じょうきょうなかあたらしく織物業おりものぎょうはじめた清久せいくは、秋間家あきまけ先祖せんぞ名乗なのっていた為八ためはちという名前なまえ名乗なのり、一生懸命働いっしょうけんめいはたらきました。その結果けっか、1865ねん慶応けいおう元年がんねん)には2400たんあまりの販売量はんばいりょうほこちからのある機屋はたや織物おりもの仕事しごとをするいえ)に成長せいちょうし、っている土地とちいままでの数倍すうばいやすなど才能さいのうのあるところを>せました。また、はや時期じき輸入ゆにゅう綿糸めんし唐糸からいと中国ちゅうごくから輸入ゆにゅうしたいと)を絹綿交織物けんめんこうしょくものきぬ綿めんがいっしょにりこまれた織物おりもの)にれるというあたらしいことにもすすんでみました。
 墓石ぼせきにも「性格せいかくがおだやかで、一生懸命仕事いっしょうけんめいしごとをしていえさかえさせた。また、教育きょういく地域ちいきをきれいにすること、まずしい人たちをたすけることのために自分じぶんのおかね使つかったので、まわりのひとびとにたよられ、とても尊敬そんけいされていた」とあります。秋間家あきまけ墓地ぼちにひとつの立派りっぱ灯籠とうろうがあり、このよこめんに「為故秋間清久君秋間為八あきまためはちさんのために) 明治めいじ34ねんがつ 足利東町あしかがひがしちょう」とかれています。まわりのひとびとが尊敬そんけいしていたひとつのれいでしょう。為八ためはち地域ちいきのためにりっぱなはたらきをしました。1874ねん明治めいじねん)の町名変更ちょうめいへんこうまち名前なまええること)のとき、東町ひがしちょうのこすためにちからをつくしたことや、自分じぶんそんをしてもほかのひとたちのためにちからをつくしたということで、為八ためはちをしたうひとびとが1894ねん明治めいじ27ねん)に「あなたは東町ひがしちょうをつくったすばらしいひとです」とほめているほどでした。
 また伊勢宮いせぐうが1868ねん明治めいじ元年がんねん)になくなってしまったときでも、先頭せんとうってもう一度いちど伊勢宮いせぐうりもどそうと、もとの土地とちい、その土地とちまもるなどの活躍かつやくをしています。(同神社どうじんじゃ境内けいだい造営記念碑ぞうえいきねんひより)
 明治時代めいじじだいになってからもますます活躍かつやくしていきますが、、どもである弥一郎為八やいちろうためはち成長せいちょうしたころには、家業かぎょうゆずりました。そして、1900ねん明治めいじ33ねん)、73さいくなりました。