相場朋厚
(あいばともあつ)
(1834〜1911)

足利学校あしかががっこうまもるためにつくしました。

 相場朋厚あいばともあつは、1834ねん天保てんぽうねん)に、今の北郷きたごう地区ちく田島町たじまちょう光明寺こうみょうじちかくでまれました。もともと武士ぶしではなかった朋厚ともあつは、武士ぶしいえ相場家あいばけ)のどもになり、足利あしかが殿様とのさま(戸田氏とだし)につかえることになりました。
江戸時代えどじだいのおわりころになると、なかすこしみだれてきました。あちこちでたたかいがはじまりました。
 そのとき足利あしかが画家がか武士ぶしでもあった田崎草雲たざきそううんというひとは、自分じぶんたちで「誠心隊せいしんたい」というグループをつくり、将軍しょうぐんくにをまとめるなかから、天皇てんのうくにをまとめるなかになるようにおうえんしました。朋厚ともあつは、この草雲そううんかんがえにさんせいして、誠心隊せいしんたいのなかまにはいりました。
 1868年(明治めいじ元年がんねん)、朋厚ともあつ35さいときです。ひとがあまりなくなり、さびしくなってきた足利学校あしかががっこうをもとのようにしたいとかんがえ、足利あしかが殿様とのさまのお使つかいとして、京都きょうとへおねがいにきました。いまのような便利べんりのない時代じだいでしたから、くだけでも大変たいへんでした。
 おねがいは、すぐにはきいてもらえませんでした。そのため、何ヶ月なんかげつ京都きょうとへのこっておねがいをしました。その結果けっか、やっとあたらしい政府せいふ(明治政府めいじせいふ)になってから、学校がっこう保存ほぞん(いつまでもそのままにしてのこしておくこと)のためのおかねされることになりました。
1871ねん明治めいじねん)になると、足利学校あしかががっこうは、栃木県とちぎけんのものとなり、大切たいせつな本もけんほうにもっていかれたり、どこにいったかからなくなったりするものもありました。さらに、けんでは、足利学校あしかががっこう建物たてものをこわすというかんがえもしてきました。
 朋厚ともあつは、田崎草雲たざきそううん川上広樹かわかみひろきという人といっしょに、建物たてものをこわすことをやめてもらうことや、大切たいせつな本をかえしてもらう運動うんどうをおこしました。栃木県庁とちぎけんちょう何度なんどもおねがいの手紙てがみしたり、自分じぶんたちで県庁けんちょうにまでったりしていっしょうけんめいにおねがいをしました。
 その結果けっか、これらのねがいはかなえられ、ほとんどの建物たてものはのこされることとなり、大切たいせつな本はかえされてきました。栃木県とちぎけんでも足利学校あしかががっこう大切たいせつなものだとかり、保存ほぞんするためのきまりをつくってくれました。
 これをきっかけにして、おなじように足利学校あしかががっこうをいつまでもそのままにしてとっておきたいとおも足利あしかがひとたちがあつまって、足利学校あしかががっこうまもろうとがんばりました。足利あしかがだけでなく全国各地ぜんこくかくち人々ひとびとに、学校がっこう保存ほぞん大切たいせつさをはなし、おかねしてくれるようにおねがいしました。おかげで、そのころのおかねで2千円せんえんいまでいうと2千万円せんまんえん)もの大金たいきんあつめることができました。このおかねもんなおしたり、こわれたほんなおしたりすることができました。
 1895ねん明治めいじ28ねん)、栃木県とちぎけん足利学校あしかががっこうまもるきまりをつくり、朋厚ともあつは、足利学校あしかががっこうまも委員いいん代表だいひょうになりました。代表だいひょうになってからの朋厚ともあつは、足利学校あしかががっこうをこれからどうまもっていくかをいっしょうけんめいかんがえました。そして、釈奠せきてんをおこなったり、学校がっこうなか図書館としょかんをつくったりすることをかんがえました。図書館としょかんは、1903ねん明治めいじ36ねん)につくられ、遺蹟図書館いせきとしょかんとして、足利学校あしかががっこうまもったり、ほん大切たいせつにとっておいたりすることを中心ちゅうしん活動かつどうすることになりました。
 としをとってからの朋厚ともあつは、をかくこともいっしょうけんめいやっていました。1911ねん明治めいじ44ねん)、とおり丁目ちょうめ自宅じたくでとうとう病気びょうきになり、78さいでなくなりました。じつに40ねんものながあいだ足利学校あしかががっこうまもるために、いっしょうけんめいつくしました。朋厚ともあつのおはかは、本城ほんじょう丁目ちょうめ法楽寺ほうらくじにあります。



参考資料さんこうしりょう 旧版きゅうばんのびゆく足利(足利市教育研究所)・足利学校読本(足利教育会)