長 祐之
(ちょうすけゆき)
(1867〜1928)

足尾あしお鉱毒こうどく調査ちょうさ最初さいしょにおこなった

 ちょう祐之すけゆきは、1867ねん慶応けいおうねん小生川おぶかわむらいま梁田やなだ地区ちく福富町ふくとみちょう)にまれました。長家ちょうけは、徳川とくがわ幕府ばくふ大名だいみょうだった本庄ほんじょう伊勢守いせのかみ代官だいかんをしていたいえだったそうです。
 東京とうきょう専門学校せんもんがっこういま早稲田わせだ大学だいがく)でまなんでいた1887ねん明治めいじ20ねん)ごろ、祐之すけゆきは、渡良瀬わたらせがわのいじょうな変化へんか足尾あしお銅山どうざん原因げんいんがあるのではないかとかんがえ、鉱毒こうどく問題もんだいはじめました。
 渡良瀬わたらせ川近がわちかくの農民のうみんが、鉱毒こうどくのおそろしさをつよかんじたのは、1890ねん明治めいじ23ねん)の大洪水だいこうずいでした。それまでの洪水こうずいは、田畑たはた栄養えいようのあるつちはこんできたので、作物さくもつがたくさんとれたのに、今回こんかい洪水こうずいは、植物しょくぶつれさせ、土地とちよわらせたのです。祐之すけゆきは、鉱毒こうどく被害ひがいをうけた土地とち調しらべはじめ、かわちかくの村役場むらやくばに、被害ひがい様子ようす調しらべて報告ほうこくするようにはたらきかけました。よく1891ねん明治めいじ24ねん)には、帝国大学ていこくだいがく農科大学のうかだいがく(いまの東京大学とうきょうだいがく農学部のうがくぶ)に鉱毒こうどくがしずんでいるつち調しらべる検査けんさをたのみ、自分じぶんは、足尾あしお銅山どうざん様子ようす調しらべにきました。
 銅山どうざんったあと、「銅山側どうざんがわは、鉱毒こうどくをなくすことを真剣しんけんかんがえていない。ふるさとへかえったら、鉱毒こうどく反対はんたい運動うんどうをおこさなければならない」と決心けっしんし、「足尾銅山あしおどうざん鉱毒こうどく渡良瀬川わたらせがわ被害沿岸ひがいえんがん事情じじょう」というほんしました。
 祐之すけゆき運動うんどうは、だんだんとまわりの人々ひとびとかってもらえ、栃木とちぎ県議会けんぎかい被害ひがいをうけた吾妻村いま佐野市さのし一部いちぶ)は、鉱毒こうどくりのぞくための意見いけんたのぶん栃木とちぎ県知事けんちじ提出ていしゅつしました。このぶんけん調査ちょうさをはじめて、1891ねん明治めいじ24ねん)、帝国大学ていこくだいがく検査けんさ鉱毒被害こうどくひがい原因げんいん足尾銅山あしおどうざんにあることがはっきりしました。そして、このとしの12がつ田中正造たなかしょうぞう鉱毒こうどく問題もんだい国会こっかいげ、全国ぜんこくられるようになりました。
 その長祐之ちょうすけゆきは、1896ねん明治めいじ29ねん)に梁田村やなだむら村会そんかい議員ぎいん、1897ねん明治めいじ30ねん)に県会議員けんかいぎいん、そして、1900ねん明治めいじ33ねん)から1908ねん明治めいじ41ねん)にかけて足利あしかが町長ちょうちょうをつとめました。
 
足尾あしお鉱毒調査こうどくちょうさ最初さいしょにおこなった 長祐之ちょうすけゆきは、1928ねん昭和しょうわねん)、61さいくなりました。