善野 秀
(ぜんのしゅう)
(1825〜1896)

 善野ぜんのしゅうは、1825ねん文政ぶんせいねん)、羽前国うぜんのくに山形藩やまがたはん山形県やまがたけん山形市やまがたし)の藩主はんしゅ秋元侯あきもとこう家臣かしん高山新兵衛二男じなんとしてまれました。秋元侯あきもとこう館林たてばやしうつさい高山家たかやまけともにしました。18さいころ江戸えどで7年間ねんかん朱子学しゅしがく和漢学わかんがく勉強べんきょうし、1855ねん安政あんせいねん足利藩士あしかがはんし善野ぜんの勝右衛門かつえもん養子ようしとなりました。
 善野ぜんのしゅう足利藩士あしかがはんしとして、足利藩あしかがはん栃木陣屋とちぎじんやはたらいているとき、江戸えど時代じだい最後さいごきたいろいろな事件じけん水戸天狗党みとてんぐとう出流原事件いずるはらじけん)では、地元じもとまれないように尽力じんりょくしたとつたえられています。また栃木とちぎにいるとき、おな足利あしかが藩士達はんしたち漢学かんがく講義こうぎしていたといわれ、かれ学問がくもんふかさがかされはじめていました。
 明治めいじになると、足利藩あしかがはん権大参事ごんのだいさんじとして藩政はんせい改革かいかくし、藩財政はんざいせい危機きき旧藩士きゅうはんし窮乏きゅうぼう生活せいかつふせ方法ほうほうさがもとめたともいわれています。
 足利学校あしかががっこうをもとにして、私立求道館しりつぐどうかんができるとその教授きょうじゅとなって、中国ちゅうごく四書五経ししょごきょう日本にほん歴史れきしなどをおしえていました。
 1889ねん明治めいじ22ねん)、高山晩翠ばんすい二男じなん祐次郎ゆうじろう養子ようしむかえ、一線いっせんから退しりぞいたが、勉学べんがくかしませんでした。そして1896ねん明治めいじ29ねん)4がつ栃木とちぎでなくなりました。