横田千之助
(よこたせんのすけ)
(1870〜1925)

 横田よこた千之助せんのすけは1870ねん明治めいじねん足利市あしかがし本城ほんじょうまれ、少年時代しょうねんじだい織物おりもの買継商かいつぎしょうところはたらいていた。その東京とうきょうて、新聞配達しんぶんはいたつをしながら学問がくもんこころざしました。
 当時とうじ自由党じゆうとう政治家せいじかであった星亨ほしとおる出会であい、かれそば仕事しごとをさせてもらうことになった。最初さいしょことわられたが、横田よこたがそれにたいする手紙てがみほししたところ、その情熱じょうねつほしがうたれれてもらえた、というエピソードものこっています。そしてはたらきながら東京とうきょう法学院ほうがくいん現在げんざい中央ちゅうおう大学だいがく)で法律ほうりつ勉強べんきょうをし、弁護士べんごし試験しけん合格ごうかくすると、そのままさらにほしのところではたらきました。
 その後、立憲政友会りっけんせいゆうかいという政党せいとう参加さんかすると、1912ねん明治めいじ45ねん)のだい11回衆議院かいしゅうぎいん選挙せんきょ栃木県下とちぎけんかから当選とうせんし、以後いご回連続かいれんぞく当選とうせんたしました。その間政党かいせいとう幹事長かんじちょうをしたり、原敬はらたかし首相しゅしょう内閣ないかくでは法律ほうりつ原案げんあんつく法制局ほうせいきょく長官ちょうかん、そして1924ねん大正たいしょう13ねん加藤高明かとうたかあき内閣ないかくでは司法大臣しほうだいじんとなった。だがよく1925ねん大正たいしょう14ねん)に、病気びょうきたおれて56さいくなりました。