田崎草雲
(たざきそううん)
(1815〜1898)

画家、足利学校を守る

 田崎たざき草雲そううんは、1815ねん文化ぶんか12ねん江戸えどいま東京とうきょう)の神保町じんぼうちょう足利あしかがはん屋敷やしきまれました。
 子供こどものころ、谷文晁たにぶんちょうからおしえをけた金井烏洲かないうじゅうというひとから,読書どくしょまなびました。青年時代せいねんじだい剣術けんじゅつ兵法へいほうをがんばりました。そのをかいてなかみとめられようと決心けっしんし、修行しゅぎょうたびをしました。その立派りっぱをかくようになったので、足利藩あしかがはん絵師えしになりました。
 草雲そううんは、1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん)に足利あしかがかえり、農民のうみん町人ちょうにんへいとした「誠心隊せいしんたい」というグループをつくって,隊長たいちょうとなりました。この誠心隊せいしんたいは、ふるさとのひとたちの安全あんぜんまもるため、活躍かつやくしました。また,草雲そううんは、相場朋厚(あいばともあつ)川上広樹(かわかみひろき)といっしょに足利学校あしかががっこうほんをそのままにのこしていくための運動うんどうをおこし、足利学校あしかががっこうまもったとつたえられています。
 1878ねん明治めいじ11ねん)には、白石山房はくせきさんぼうをつくり、をかくことにこころをうちこみました。1882ねん明治めいじ15ねん)と1884ねん明治めいじ17ねん)には、内国ないこく絵画かいが共進会きょうしんかいというコンクールで銀賞ぎんしょうをとり、1890ねん明治めいじ23ねん)には、「大日本だいにほん帝室ていしつ技芸員ぎげいいん」というやくえらばれました。そして、1893ねん明治めいじ26ねん)には、アメリカのシカゴでおこなわれた万国ばんこく博覧会はくらんかい名誉大賞めいよたいしょうをうけました。
 草雲そううんは、1898ねん明治めいじ31ねん)84さいくなりました。おはか西宮町にしのみやちょう長林寺ちょうりんじにあります。