岡崎清一郎は、1900年(明治33年)、旧足利市内に生まれました。小学校を終えて、佐中(今の佐野高校)に進みました。19歳の時に画家になろうと思いましたが、認められず、画家になるのをあきらめました。
23歳の時、詩人になろうと決めました。そこで、今まで書きためてあった作品を持って、1925年(大正14年)に、小田原にいる北原白秋という有名な詩人に会いに行きました。白秋は、清一郎の作品を見て、「君はよい素質をもっている。特に短いものにはよいものがある。」とほめ、清一郎の詩をみとめてくれました。やがて、白秋の推薦で「日光」「アルス」「近代風景」などに詩がのせられ、それから日本の詩の世界でみとめられるようになりました。
その後、東京、京都に住み、1935年(昭和10年)、35歳のときに足利にかえってきて、それからはずっと住むことになりました。結婚、病気などいろいろなことがありましたが、その間も詩をつくり続けました。多くの詩の本に自分の詩をおくりつづけ、だんだんに詩人として有名になってきました。生活はあまり楽ではありませんでしたが、「幸福記」「青葉経」などの詩集を自分の力で発行(本にして世の中に出すこと)しました。
戦争中は、親戚の近藤精機という会社の会計係としてはたらき、戦争が終わった後は、貸本屋をしました。その後も詩を作りつづけ、1960年(昭和35年)には詩集「新世界交響楽」が高村光太郎賞を受賞しました。この賞は、詩では一番上の賞で、この賞をもらうことはとてもすばらしいことです。1963年(昭和38年)、栃木県文化功労者に選ばれました。詩集「古妖」、「岡崎清一郎詩集」を発行したのはこのころです。これにより「歴程賞」をもらいました。1972年(昭和47年)には、勲四等瑞宝章を受章しましたが、地方にすむ詩人としてはとてもめずらしいことでした。翌年には、読売文学賞を受賞しました。50年もの長い間にわたって、ひたすらに詩を書きつづけてきた清一郎は、日本詩壇の最長老(一番年をとってよくものごとを知っている人)として活躍しました。「わしは、詩が好きで好きでたまらない。だから一筋に詩を書きつづけてきた。いや、わしには詩を書くしか能がないのだ。」と話しています。まさに詩に一生をかけた、清一郎の気持ちが伝わってきます。清一郎は1986年(昭和61年)、85歳で亡くなりました。岡崎清一郎の詩集は、数多く発行されました。ぜひ、読んでみてください。
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