前橋真八郎は、1891年(明治24年)、江戸時代には名主を勤める旧家に生まれました。学校を卒業すると、軍隊に入りました。それを辞めた後は、朝鮮半島に渡りました。31歳の時、兄が亡くなると足利へ戻りました。農業を続けると共に、村の役員に推され、村農会長、産業組合長、村長などになりました。
村長の時、国の農業政策について意見を述べる機会がありました。総理大臣をはじめとする大臣の前で話した真八郎の意見が採り上げられ、実施されることになりましたが、残念ながら戦争のため中止となってしまいました。第二次世界大戦が終わると、国は再び意見を採り上げ、農業の指導を行うところを各地に設けることになりましたが、これからの農業はアメリカの方法で行うべきだという指令が下されため、実際には行われませんでした。
しかし、真八郎は日本の各地で農業の指導をするとともに、農業機械の改良も行いました。またみずから農場を経営し、農業能率研究所長として古いしきたりの農村に新しい技術をもちこみました。真八郎の考えは全国的に知られました。また、真八郎は「有畜機械農業」「畜力利用多収稲作法」などを書きました。
(「郷土の人々」)(田部井健二「三栗谷用水」)
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