柏瀬宗伊は、今から650年ほど前に茨城県古河市に住んでいた足利尊氏の子孫(古河公方)のもとで働いていた柏瀬丹後守の流れをくんでいる柏瀬家の17代目として1826年(文政9年)に生まれました。
初めは江戸にでて儒学を学んだが、17歳の時群馬県の渋川に住んでいる、蘭医木暮五十槻のもとで20歳まで医者になる勉強をしました。木暮は本居宣長のところで日本のことを学ぶ国学を学んだ人だといわれています。
木暮のところにいたとき、外国との交流を持つことを訴えて幕府から目をつけられていた高野長英と知り合い、同じ運動を勧められました。しかし医者を志していることを考えると参加できないことを長英に伝えると、長英は彼に地図と地球儀を渡したといわれます。この2つは、今でも柏瀬家の宝として伝えられています。
彼は足利の西部から北部、さらに飛駒まで患者を看に行ったといわれます。そのため足にマメができても、それを煙草の葉を切る包丁で削って出かけました。また病状によっては一日何回も訪れたり、貧しい人にはむしろ自分がお金を出して治療したといいます。「医は仁術」といわれるような、人間を大事にする医者でした。
そして、50歳を過ぎて息子に仕事を譲っても、供に治療を続けていたといいます。
仕事だけでなく勉強も熱心で、医学書や中国の学問の本をたくさん読んでおり、今でもそれらは残っているといいます。さらに象雲堂という寺子屋をつくって、地元の子供に教えていました。この塾は明治の時代になって学校ができるまで続けられ、そこで学んだ人たちが彼と塾のことを記した記念碑が松田神社に建てられています。柏瀬家では、彼の後の人も医学を志し現在まで続いています。
参考資料:『わが柏瀬家』
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