柏瀬宗伊
(かしわせそういん)
(1826〜1884)

 柏瀬宗伊かしわせそういんは、いまから650ねんほどまえ茨城県いばらきけん古河市こがしんでいた足利尊氏あしかがたかうじ子孫しそん古河こが公方くぼう)のもとではたらいていた柏瀬かしわせ丹後守たんごのかみながれをくんでいる柏瀬家かしわせけの17代目だいめとして1826ねん文政ぶんせいねん)にまれました。
 はじめは江戸えどにでて儒学じゅがくまなんだが、17さいとき群馬県ぐんまけん渋川しぶかわんでいる、蘭医らんい木暮五十槻こぐれいっきのもとで20さいまで医者いしゃになる勉強べんきょうをしました。木暮こぐれ本居宣長もとおりのりながのところで日本にほんのことをまな国学こくがくまなんだひとだといわれています。
 木暮こぐれのところにいたとき、外国がいこくとの交流こうりゅうつことをうったえて幕府ばくふからをつけられていた高野長英たかのちょうえいい、おな運動うんどうすすめられました。しかし医者いしゃこころざしていることをかんがえると参加さんかできないことを長英ちょうえいつたえると、長英ちょうえいかれ地図ちず地球儀ちきゅうぎわたしたといわれます。この2つは、いまでも柏瀬家かしわせけたからとしてつたえられています。
 かれ足利あしかが西部せいぶから北部ほくぶ、さらに飛駒ひこままで患者かんじゃったといわれます。そのためあしにマメができても、それを煙草たばこ包丁ほうちょうけずってかけました。また病状びょうじょうによっては一日何回いちにちなんかいおとずれたり、まずしいひとにはむしろ自分じぶんがおかねして治療ちりょうしたといいます。「仁術」といわれるような、人間にんげん大事だいじにする医者いしゃでした。
 そして、50さいぎて息子むすこ仕事しごとゆずっても、とも治療ちりょうつづけていたといいます。
 仕事しごとだけでなく勉強べんきょう熱心ねっしんで、医学書いがくしょ中国ちゅうごく学問がくもんほんをたくさんんでおり、いまでもそれらはのこっているといいます。さらに象雲堂しょううんどうという寺子屋てらこやをつくって、地元じもと子供こどもおしえていました。このじゅく明治めいじ時代じだいになって学校がっこうができるまでつづけられ、そこでまなんだひとたちがかれじゅくのことをしるした記念碑きねんひ松田神社まつだじんじゃてられています。柏瀬家かしわせけでは、かれのちひと医学いがくこころざ現在げんざいまでつづいています。

参考資料さんこうしりょう:『わが柏瀬家かしわせけ