金井繁之丞
(かないしげのじょう)
(1754〜1829)

足利の紋織もんおりの祖、数々かずかず新技術しんぎじゅつみ出す

 金井繁之丞かないしげのじょうは、桐生きりゅう足利あしかが紋織もんおりはじめた、「神様かみさま」として有名ゆうめいです。足利市あしかがし北西ほくせい粟谷町あわのやちょうにある粟谷神社あわのやじんじゃ境内けいだいちいさな「機神はたがみ神社じんじゃ」がまつられています。このやしろは1787ねん天明てんめいねん)に繁之丞しげのじょうかれあに仙右衛門せんうえもん願主がんしゅとなっててたものです。
 繁之丞しげのじょうは、1754ねん宝暦ほうれきねん粟谷村あわのやむらまれました。ちいさいころから機械きかい興味きょうみち、おかあさんが使つかっている機織はたおりの機械きかい毎日眺まいにちながめていました。粟谷村あわのやむらは、農業のうぎょう合間あいまかいこきぬるのがさかんな所でした。とく繁之丞しげのじょうそだったころは、桐生きりゅう足利あしかが織物おりもの機械きかいに、いままでの「いざりばた」にわって「高機たかばた」が使つかわれるようになり、さらに京都きょうと西陣織(にしじんおり)最新さいしん技術ぎじゅつれられて、高級織物こうきゅうおりものをつくろうとみんなががんばっていた時期じきでした。繁之丞しげのじょうあに精巧平せいこうひらというこまかなところまでよくできている袴地はかまぢりだしていました。しかし、紋織もんおり技術ぎじゅつは、西陣にしじんにしかつたわっていないもので、桐生きりゅう足利あしかがにはまだつたえられていませんでした。
 繁之丞しげのじょう一生いっしょうめたのは、京都きょうと紋工もんこう小坂半兵衛こさかいはんべえとの出会であいでした。半兵衛はんべえは、1786ねん天明てんめいねん)より5年間ねんかん繁之丞しげのじょういえみ、そのあいだに桐生きりゅう紋織技術もんおりぎじゅつおしえました。8さい年下としした半兵衛はんべえから、一生懸命いっしょうけんめい新技術しんぎじゅつまなび、半兵衛はんべえ京都きょうとかえったのちも、まれった研究心けんきゅうしん数々かずかずあたらしい技術ぎじゅつ発明はつめいしていきました。
 めたいと使つかって大変細たいへんこまかかい模様もようはなとり風景ふうけい人物じんぶつなどをす「模様紋織物もようもんおりもの」は、繁之丞しげのじょうかんがしたものです。当時桐生とうじきりゅう足利あしかが特産とくさんとなった模様玉川もようたまがわ紋織広東もんおりかんとん小緞子こどんす二挺緞子にちょうどんす無双織むそうおりなども繁之丞しげのじょう発明はつめい工夫くふうしたものです。なしの羽織はおり蚊帳かや財布さいふなどたくさんのめずらしい織物おりものかんがえました。また、毛織物けおりものしたのも、桐生きりゅうでは繁之丞しげのじょう最初さいしょでした。
 1825ねん文政ぶんせいねん)、「織物おりもの稽古けいこ相談会そうだんかい」という講習会こうしゅうひらき、自分じぶんかんがえたかたあつまった人々ひとびとつたえました。繁之丞しげのじょうは、織物おりものだけではなく、井戸いどみず自然しぜんにくみげる道具どうぐみずちから利用りようして方法ほうほうなども研究けんきゅうしました。
 繁之丞しげのじょうは、1829ねん文政ぶんせい12ねん)、76さい病死びょうししました。