金井繁之丞は、桐生・足利の紋織を始めた、「生き神様」として有名です。足利市の北西、粟谷町にある粟谷神社の境内に小さな「機神神社」が祀られています。この社は1787年(天明7年)に繁之丞と彼の兄仙右衛門が願主となって建てたものです。
繁之丞は、1754年(宝暦4年)粟谷村に生まれました。ちいさいころから機械に興味を持ち、お母さんが使っている機織りの機械を毎日眺めていました。粟谷村は、農業の合間に蚕を飼い絹を織るのが盛んな所でした。特に繁之丞が育った頃は、桐生・足利の織物の機械に、いままでの「いざり機」に代わって「高機」が使われるようになり、さらに京都西陣織の最新の技術が取り入れられて、高級織物をつくろうとみんなががんばっていた時期でした。繁之丞の兄も精巧平という細かなところまでよくできている袴地を織りだしていました。しかし、紋織の技術は、西陣にしか伝わっていないもので、桐生・足利にはまだ伝えられていませんでした。
繁之丞の一生を決めたのは、京都の紋工小坂半兵衛との出会いでした。半兵衛は、1786年(天明6年)より5年間、繁之丞の家に住み、そのあいだに桐生で紋織技術を教えました。8歳も年下の半兵衛から、一生懸命に新技術を学び、半兵衛が京都に帰った後も、生まれ持った研究心で数々の新しい技術を発明していきました。
染めた糸を使って大変細かい模様の花や鳥・風景・人物などを織り出す「模様紋織物」は、繁之丞の考え出した物です。当時桐生・足利の特産となった模様玉川・紋織広東・小緞子・二挺緞子・無双織なども繁之丞が発明し工夫した物です。縫い目なしの羽織・蚊帳・財布などたくさんのめずらしい織物も考えました。また、毛織物を織り出したのも、桐生では繁之丞が最初でした。
1825年(文政8年)、「織物稽古相談会」という講習会を開き、自分の考えた織り方を集まった人々に伝えました。繁之丞は、織物だけではなく、井戸の水を自然にくみ上げる道具、水の力を利用して矢を射る方法なども研究しました。
繁之丞は、1829年(文政12年)、76歳で病死しました。
|