伊沢紹綸
(いざわしょうりん)
(1844〜1911)

地域の教育の発展につくす

 伊沢紹綸いざわしょうりんは、1844ねん弘化こうか元年がんねん)に川村家かわむらけまれましたが、まもなく伊沢家いざわけ養子ようしになりました。しかし9さいとき遠江国とうとうみのくにいま静岡県しずおかけん)のおてら修業しゅぎょうきました。おてらでの修行しゅぎょうあいだ紹綸しょうりん日本にほん中国ちゅうごく学問がくもん勉強べんきょうしました。そして明治めいじのはじめに田島村たじまむら光明寺こうみょうじむことになりました。
 1872ねん明治めいじねん)に学制がくせいという教育きょういくについてのあたらしいきまりができました。北郷きたごう地区ちくでは1873ねん明治めいじねん)11がつ光明寺こうみょうじかり校舎こうしゃとして敬業けいぎょう学校がっこうという学校がっこうひらかれました。このとき日本にほん中国ちゅうごく学問がくもん勉強べんきょうしていた紹綸しょうりんは、1876ねん明治めいじねん)から1881ねん明治めいじ14ねん)の5年間ねんかん、この小学校しょうがっこう先生せんせいをしました。
 あたらしい校舎こうしゃができて、光明寺こうみょうじ校舎こうしゃとして使つかわなくなると、紹綸しょうりんはここにじゅくひらいて、北郷きたごう地区ひとたちにいろいろな勉強べんきょうおしえました。そのころおしえていたおも科目かもく料理りょうり短歌たんかなどで、このようなじゅくが、そのころ田島たじまさとにおいてひらかれたことはすごいことだったそうです。
 紹綸しょうりん和歌わかでも有名ゆうめいで、「矯風きょうふう明治めいじ二十七年にじゅうしちねん二月にがつ創刊そうかん)」という地方ちほう和歌わか漢詩かんしをのせたほんうた毎号出まいごうだし、ときには塾生じゅくせい作品さくひんものせ、有名ゆうめいになりました。
 紹綸しょうりんは、1911ねん明治めいじ44ねん)3がつにちに68さいでなくなりました。

あまそらかすめるつきおぼにともしびかはしかえるかりがね
ながれゆくみずみどりあやおりてそめかけぬらん青柳いと   寿山じゅざん

これは、紹綸しょうりんのつくったうたです。寿山じゅざんというのは紹綸しょうりんうたをよむときのべつ名前なまえです。