石川宗吉
(いしかわそうきち)
(1865〜1920)

耕地こうち区画整理くかくせいりちからくす

 石川宗吉いしかわそうきちは、1865ねん慶応元けいおうがんねんいま御厨地区みくりやちく上渋垂町かみしぶたれちょうまれました。1889ねん明治めいじ22ねん当時とうじ御厨村収入役みくりやむらしゅうにゅうやくむらのおかねれの仕事しごと責任者せきにんしゃ)になったあと足利郡会議員あしかがぐんかいぎいん県会議員けんかいぎいんなどになり、1899ねん明治めいじ32ねん)には、御厨村長みくりやそんちょうになりました。
 宗吉そうきちは、渡良瀬川わたらせがわ南部地区なんぶちく耕地こうち作物さくもつそだてる土地とち)の整理せいりちからをつくし、なかのためにりっぱなはたらきをしました。渡良瀬川わたらせがわむかしから「あばれがわ」とばれ、毎年まいとし洪水こうずいをくりかえしていました。さらに、足尾銅山あしおどうざんからの鉱毒こうどく被害ひがいかさなって、かわのまわりの田畑たはたれていく一方いっぽうでした。とくに1906ねん明治めいじ39ねん)の大洪水だいこうずい被害ひがいは大きく、農民のうみんたちはなお気持きもちもなくなってしまうほどでした。これを宗吉そうきちは、れた田畑たはたもともどし、これまで以上いじょうにとれる作物さくもつをふやそうと、耕地こうち区画整理くかくせいり(きれいに仕切しきってけて整理せいりすること)を決意けついしました。
 1907ねん明治めいじ40ねん)、まず御厨村みくりやむら梁田村やなだむらふたつのむらで、いっしょに耕地こうち整理せいりする組合くみあいをつくって、やく88ヘクタールのひろさで整理せいりをしはじめました。これをきっかけにして、1911ねん明治めいじ44ねん)渡良瀬川わたらせがわ南部なんぶいつつのむら御厨村みくりやむら梁田村やなだむら山辺村やまべむら久野くのむら筑波村つくばむら)が参加さんかした、総面積そうめんせきやく1078ヘクタール、参加さんかした土地とちぬし1600にんというとてもおおきな耕地こうち整理せいり計画けいかくが、けんにみとめられました。これは、栃木県とちぎけん最初さいしょおおきな区画整理くかくせいりのモデル事業じぎょう(みんながそれをみてまねをしたり工夫くふうしたりすること)でした。
 この事業じぎょう組合長くみあいちょうになった宗吉そうきちは、つぎの年の1912ねん明治めいじ45ねん)から工事こうじはじめる準備じゅんびをしていましたが、この工事こうじのことをかってくれない一部いちぶ地主じぬし土地とちっているひと)はつよ反対はんたいしました。反対はんたいする人たちは会議かいぎをじゃましたり、役所やくしょ宗吉そうきちいえにおしかけたりしました。宗吉そうきちあぶないにあいそうになりましたが、家族かぞくをほかのところにうつして自分じぶん一人ひとりとどまり、けっしてけることはなかったと、いわれています。
 このような反対運動はんたいうんどうのため、工事こうじは1ねんおくれ、ふたつのむらはじまった渡良瀬川わたらせがわ南部なんぶ耕地こうち区画整理くかくせいりは、27年間ねんかんかかって1934ねん昭和しょうわねん)にようやくわりました。しかし、宗吉そうきちはそれをることができず、1920ねん大正たいしょうねん)55さいくなりました。