瀬北は江戸時代も終わりに近い1814年(文化11年)、そのときの駿河国志多(太)郡助宗村(現在の静岡県)の農業、常右衛門方に生まれました。幼いときからとても学問が好きで、本などをよく読んでいたといわれています。お坊さんになろうと一時お寺に修行をしに行きましたが、あきらめて江戸へいって儒学を学びました。足利へ移り住んできた理由はわかりませんが、ちょうど外国とつきあうかどうかがが話題になりはじめた弘化年間(1844〜7)に、足利へやってきました。そのころ八日町(現在の緑町)にあった蓮台山法幢寺の空き家に住んで臨渡堂という塾をひらきました。その後30年あまりにわたって、生徒の教育にはげんでいます。
瀬北の塾は法幢寺にあったので、一般に法幢寺の先生とよばれ、生徒は毎日通学している人だけでも50人はいました。
瀬北が生徒を教える時はいつも木で造った1尺5寸位(約45センチ)の八ツ目鰻をもっていたといわれています。教えるのにつかったテキストは「実語教」「今川庭訓」、四書五経などでした。また授業は素読(そのまま読むこと)、暗記(ぜんぶおぼえること)、筆写(書き写すこと)などが中心でした。
瀬北の塾では冬至の日(昼間が一番短い日)には生徒たちをつれて、足利学校の聖廟におまいりする習慣がありました。その時には瀬北自身は陣羽織を着て礼儀正しくして、男子の生徒をつれて、女子の生徒は瀬北夫人が無垢の着物(まっしろな着物)を着て身なりを整えてつれていったといわれています。明治維新前の寺子屋には天神講といって、毎月1回先生と生徒がいっしょになって食事をし、勉強ができるようになるよう祈る習慣があったといわれています。
臨渡堂では月の25日には25文ずつ金を集めて、瀬北が油揚げや豆腐などを弟子たちにふるまったそうです。また時には場所を借り、しきものを敷き、席書といってみんなが見守るなかで文字を書き、これを見物人にあげたこともありました。1880年(明治13年)3月にでている詩や歌などを募集するチラシ広告に、選者(選ぶ人)の手伝いとして飯塚律(瀬北)の名前がありますので、そのようなこともやっていたと思われます。
瀬北に教えをうけた人足利地区だけでも一千人くらいもいて、今福、五十部だけではなく、大岩や市場などの地域からも通学していた人たちもあったといわれています。旧本町地域ではあとで町長になった原田与佐衛門、初代市長川島平五郎、町助役の堀江浦太郎、織物同業組合長になった川島久三郎などどの人も瀬北に学んだ人たちでした。
1886年(明治19年)1月9日病気になり、72歳でなくなりました。墓は7丁目の三宝院にあります。
瀬北の詩碑は、現在足利公園のなかにひっそりと建っています。
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