伏島真一郎
(ふせじましんいちろう)
(1850〜1916)

学校がっこうをつくったり、村長そんちょうをつとめたりして、地域ちいき発展はってんにつくす

 伏島真一郎ふせじましんいちろうは、1850ねん嘉永かえいねん)に、邑楽郡おうらぐん秋妻村あきづまむらいま邑楽町おうらまち秋妻あきづま)の岩崎家いわさきけまれました。1871ねん明治めいじねん)に伏島ふせじま真七郎しんしちろう養子ようしになりました。
 1869ねん明治めいじねん)から、けん役人やくにんになりました。1873ねん明治めいじねん)からは、学校がっこうをつくる仕事しごとちからをつくしました。
 1882ねん明治めいじ15ねん)に群馬県ぐんまけん県会議員けんかいぎいんにえらばれ、1903ねん明治めいじ36ねん)には、矢場川村やばがわむら村長そんちょうになりました。
 真一郎しんいちろうは、一生いっしょうのほとんどを、役人やくにん議員ぎいんなどをつとめて、人々ひとびとのために努力どりょくをしました。としをとってからは、「桃園とうえん」という名前なまえ日本画にほんがにしたしみ、しろうととはおもえない、よい作品さくひんつくりましたが、1916ねん大正たいしょうねん)になくなりました。66さいでした。おはか明林寺みょうりんじにあります。里矢場町さとやばちょう伏島医院ふせじまいいんが、真一郎しんいちろういえです。