原田定助は、1867年(慶応3年)4月、足利本町に生まれました。父は町の中でも豊かな家で綿糸商であった原田進三郎、母は田中正造の妹のリンです。長男の定助は、伯父の田中正造の紹介で書生(他人の家に住ませてもらい、その家の仕事を手伝いながら勉強する学生)として、島田三郎の家に住み込み、ここから一ツ橋の東京高等商業学校に通いました。成績が良くて、卒業の時は二番だったそうです。定助は当時の校長矢野二郎先生のすすめもあり、卒業後は三井物産に入り、アメリカに行って貿易商になろうと決めていましたが、母の死、そして父の病気という悲しい出来事が続き、貿易商の夢をあきらめて、1890年(明治23年)、足利にもどり、家業(家の仕事)の綿糸商を継ぐことになりました。
定助は伯父の田中正造の関係で、早くから島田三郎・三宅雄二郎・松村介石・木下尚江・内村鑑三らと知り合い、キリスト教をもとにした運動にも参加していました。キリスト教会をつくることにも力をそそぎ、月見ケ丘のふもとにある足利基督教会をつくりました。この教会は、定助が日露戦争から帰った後、天皇陛下からいただいたごほうびのお金三百五十円をもとにして建てられた教会として有名です。定助と妻のリンは日曜日ごとに、子供たちを連れてこの教会に通ったといわれています。
栃木県の中で、とても歴史の古い足利友愛幼稚園がつくられたのも定助の努力によるものです。定助が初代の園長になることになり、1902年(明治35年)2月11日に開園式を行い、次の年の3月に15名の卒園者を送り出しました。
また、定助は田中正造のかくれた経済的支援者(お金の面で助けてあげる人)でもありました。
年をとってからの定助の功績(やりとげた仕事)は、足利中学校の建設だと思われます。1915年(大正4年)9月県会議員に当選した後、1919年(大正8年)にふたたび選ばれて県会議長となり、足利中学校の建設に努力し、1921年(大正10年)4月15日に開校することになりました。
産業界においては、足利銀行をつくる計画者として、また後援者として力をつくしました。1920年(大正9年)には足利織物同業組合の組合長にすいせんされたので、県会議長をやめて、組合長になりました。 定助は1925年(大正14年)10月3日、病気のため亡くなりました。お墓は三宝院にあります。
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