原田定助
(はらださだすけ)
(1867〜1925)

キリストきょう精神せいしんつらぬ
田中たなか正造しょうぞうかくれた援助えんじょ

 原田はらだ定助さだすけは、1867ねん慶応けいおうねん)4がつ足利あしかが本町ほんちょうまれました。ちちまちなかでもゆたかないえ綿糸めんししょうであった原田はらだ進三郎しんざぶろうはは田中たなか正造しょうぞういもうとのリンです。長男ちょうなん定助さだすけは、伯父おじ田中たなか正造しょうぞう紹介しょうかい書生しょせい他人たにんいえませてもらい、そのいえ仕事しごと手伝てつだいながら勉強べんきょうする学生がくせい)として、島田しまだ三郎さぶろういえみ、ここから一ツ橋ひとつばし東京高等とうきょうこうとう商業学校しょうぎょうがっこうかよいました。成績せいせきくて、卒業そつぎょうとき二番にばんだったそうです。定助さだすけ当時とうじ校長こうちょう矢野二郎やのじろう先生せんせいのすすめもあり、卒業後そつぎょうご三井みつい物産ぶっさんはいり、アメリカにって貿易商ぼうえきしょうになろうとめていましたが、はは、そしてちち病気びょうきというかなしい出来事できごとつづき、貿易商ぼうえきしょうゆめをあきらめて、1890ねん明治めいじ23ねん)、足利あしかがにもどり、家業かぎょういえ仕事しごと)の綿糸商めんししょうぐことになりました。
 定助さだすけ伯父おじ田中たなか正造しょうぞう関係かんけいで、はやくから島田三郎しまださぶろう三宅雄二郎みやけゆうじろう松村介石まつむらかいせき木下尚江きのしたなおえ内村鑑三うちむらかんぞうらとい、キリストきょうをもとにした運動うんどうにも参加さんかしていました。キリスト教会きょうかいをつくることにもちからをそそぎ、月見ケ丘つきみがおかのふもとにある足利あしかが基督きりすと教会きょうかいをつくりました。この教会きょうかいは、定助さだすけ日露にちろ戦争せんそうからかえったのち天皇てんのう陛下へいかからいただいたごほうびのおかね三百五十円さんびゃくごじゅうえんをもとにしててられた教会きょうかいとして有名ゆうめいです。定助さだすけつまのリンは日曜日にちようびごとに、子供こどもたちをれてこの教会きょうかいかよったといわれています。
 栃木県とちぎけんなかで、とても歴史れきしふる足利あしかが友愛ゆうあい幼稚園ようちえんがつくられたのも定助さだすけ努力どりょくによるものです。定助さだすけ初代しょだい園長えんちょうになることになり、1902ねん明治めいじ35ねん)2がつ11にち開園式かいえんしきおこない、つぎとしの3がつに15めい卒園者そつえんしゃおくしました。
 また、定助さだすけ田中たなか正造しょうぞうのかくれた経済的けいざいてき支援者しえんしゃ(おかねめんたすけてあげるひと)でもありました。
 としをとってからの定助さだすけ功績こうせき(やりとげた仕事しごと)は、足利あしかが中学校ちゅうがっこう建設けんせつだとおもわれます。1915ねん大正たいしょうねん)9がつ県会議員けんかいぎいん当選とうせんしたのち、1919ねん大正たいしょうねん)にふたたびえらばれて県会議長けんかいぎちょうとなり、足利あしかが中学校ちゅうがっこう建設けんせつ努力どりょくし、1921ねん大正たいしょう10ねん)4がつ15にち開校かいこうすることになりました。
 産業界さんぎょうかいにおいては、足利銀行あしかがぎんこうをつくる計画者けいかくしゃとして、また後援者こうえんしゃとしてちからをつくしました。1920ねん大正たいしょうねん)には足利織物あしかがおりもの同業組合どうぎょうくみあい組合長くみあいちょうにすいせんされたので、県会議長けんかいぎちょうをやめて、組合長くみあいちょうになりました。
 
定助さだすけは1925ねん大正たいしょう14ねん)10がつにち病気びょうきのためくなりました。おはか三宝院さんぽういんにあります。