長四郎三は、1822年(文政5年)猿田河岸の近く(今の猿田町)の回船問屋(船で品物を送り届ける仕事)の三代目として生まれました。
当時は、渡良瀬川と船を使って物を運ぶことがさかんで、猿田河岸の近くは足利の交通の玄関口でした。生活が豊かな家に育った四郎三は、江戸(今の東京)で、有名な茶人について茶道(人にお茶を出す場合のきまりや、心がまえをきわめる芸道)を習いました。その他にも、「風流」と呼ばれる知識や豊かな心を身につけました。茶道ばかりでなく、詩や和歌(日本に昔から伝わってきた詩と歌をまぜたもの)をつくったり、墨絵などにも才能があったりしたそうです。
四郎三の家は、江戸にも店を持っていたので、江戸で開いた茶会には、大名まで招待したといわれています。江戸時代の終りごろは、争いなどでさわがしい江戸をさけて、足利で茶会を開くことが多くなると、わざわざ江戸から船で渡良瀬川を上ってきて、茶会に参加する人もいたそうです。
江戸から明治の世の中になると、当時の足利の政治・経済の中心的な役割をしていた人達が、四郎三の茶室によく集まったそうです。四郎三の茶室の一つである「物外軒」は、足利市の指定文化財として、織姫公民館の北側にのこされています。
文字通りの「風流人」であった、四郎三は、1896年(明治29年)74才で亡くなっています。
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