長四郎三
(ちょうしろぞう)
(1822〜1896)

和歌わかをつくり、えがいた茶人ちゃじん

 ちょう四郎三しろぞうは、1822ねん文政ぶんせいねん猿田河岸やえんだかしちかく(いま猿田町さるたちょう)の回船問屋かいせんどんやふね品物しなものおくとどける仕事しごと)の三代目さんだいめとしてまれました。
 当時とうじは、渡良瀬わたらせがわふね使つかってものはこぶことがさかんで、猿田やえんだ河岸かしちかくは足利あしかが交通こうつう玄関口げんかんぐちでした。生活せいかつゆたかないえそだった四郎三しろぞうは、江戸えどいま東京とうきょう)で、有名ゆうめい茶人ちゃじんについて茶道さどうひとにおちゃ場合ばあいのきまりや、こころがまえをきわめる芸道げいとう)をならいました。そのほかにも、「風流ふうりゅう」とばれる知識ちしきゆたかなこころにつけました。茶道さどうばかりでなく、和歌わか日本にほんむかしからつたわってきたうたをまぜたもの)をつくったり、墨絵すみえなどにも才能さいのうがあったりしたそうです。
 四郎三しろぞういえは、江戸えどにもみせっていたので、江戸えどひらいた茶会ちゃかいには、大名だいみょうまで招待しょうたいしたといわれています。江戸えど時代じだいりごろは、あらそいなどでさわがしい江戸えどをさけて、足利あしかが茶会ちゃかいひらくことがおおくなると、わざわざ江戸えどからふね渡良瀬わたらせがわあがってきて、茶会ちゃかい参加さんかするひともいたそうです。
 江戸えどから明治めいじなかになると、当時とうじ足利あしかが政治せいじ経済けいざい中心的ちゅうしんてき役割やくわりをしていた人達ひとたちが、四郎三しろぞう茶室ちゃしつによくあつまったそうです。四郎三しろぞう茶室ちゃしつひとつである「物外軒ぶつがいけん」は、足利市あしかがし指定してい文化財ぶんかざいとして、織姫おりひめ公民館こうみんかん北側きたがわにのこされています。
 文字もじどおりの「風流人ふうりゅうじん」であった、四郎三しろぞうは、1896ねん明治めいじ29ねん)74さいくなっています。