3代目殿岡利助は、1883年(明治16年)10月8日、足利本町栄町、2代目殿岡利助の子として生まれました。小さいころの名前を福三といいました。殿岡家は代々、利助という名前をついでいる家でした。
福三が十歳の時、父の利助がなくなり、14歳で足利に店のある東京日本橋の安田源蔵商店の店員を約6年間つとめました。
福三が23歳のころ、利助の名前をつぎ、代々殿岡家が行ってきた織物製造業をまたはじめました。自ら大八車を引いて富田の多田木村まで賃機屋まわりをしました。
しかし利助は、昔からの方法には満足しないで、工場で機械を使う、新しい織物の作り方に取り組みました。
1915年(大正4年)の織工(はたをおる人)6名の、売上げはたった1万円という工場が、1920年(大正9年)には織工数では十位に入る殿利工場となり、1933年(昭和8年)には、織工約130名の個人経営の工場のトップとなりました。さらに1940年(昭和15年)には、殿利有限会社となり、140台の織機と約200名の織工のいる大きな工場にまで成長しました。
この間、1920年(大正9年)足利織物同業組合代議員に初めて当選し、同じ年に足利安蘇工場懇話会理事、1924年(大正13年)足利織物同業組合代議員にもういちど当選し、同年同業組合副組長、1931年(昭和6年)足利セーミ御召統制会会長、1932年(昭和7年)同業組合第三部長、同部織物審査所理事長、1934年(昭和9年)同業組合組長等の仕事をし、足利がますます大きくなっていくように、がんばりました。
利助は社会を良くすることに対しても、力をつくしました。1921年(大正10年)足利が市になると、市議会議員になり、その後、1947年(昭和22年)参議院議員(国会議員)に当選するまで議員をつとめました。その中で、消防施設をよくするために、たいへん努力をしました。
1926年(大正15年)には自動車ポンプを購入、定員6名の「常備消防部」を設置しました。1929年(昭和4年)には全国で3番目という火災報知機を設置しました。続いて上水道(きれいな水の通り道)が完成した1930年(昭和5年)には、消火栓(約400基)も置かれました。その後も、利助は寄付をして、自動車ポンプの数を増やすなど市民の安全なくらしを守るために努力しました。その後も、報知機は増やされ、その数は全国一と言われ、第2次世界大戦後間もなく「望楼のない町」としてNHKから全国に放送されました。
1946年(昭和21年)「栃木県繊維工業振興会」の理事長になり、足利の織物業ををふたたびさかんにするように努力しました。利助たちの努力で、足利は「トリコットの足利」と言われるほどになりました。
利助は、長男の利男とともにゴムからいろいろなものを作る技術を生かしゴムの履物を作り始めました。努力の結果、1946年(昭和21年)11月に初めて製品ができ、1947年(昭和22年)1月には本格的にゴム靴の生産をはじめました。そして1947年(昭和22年)6月興国化学工業株式会社をつくり、アキレスの名前で全国に知られるようになりました。
また利助は1924年(大正13年)足利市の歴史をまとめる委員、1934年(昭和9年)織姫神社奉賛会会長、同年ばん阿寺保存会副会長、1937年(昭和12年)草雲会の発起人、1950年(昭和25年)足利日赤病院後援会会長になるなど、地元の文化活動にも力を尽くしました。1937年(昭和12年)織姫神社の石垣を作ることになり、それによって壊される古墳の発掘調査を援助し、報告書を出版したり、1943年(昭和18年)には丸山瓦全の指導による古墳所在調査誌という本を出すお金を寄付しました。この調査誌は、現在も足利の古墳を研究する者には貴重な資料となっています。
利助は、1952年(昭和27年)12月25日になくなるまで、産業や文化の発展のために活躍し続けました。
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