川島理一郎
(かわしまりいちろう)
(1886〜1971)

絵を通して文化の発展につくす

 川島理一郎りいちろうは、1886ねん明治めいじ19ねん)、足利市通あしかがしとおり丁目ちょうめ生糸商きいとしょう川島栄助かわしまえいすけ、クラの長男ちょうなんとしてまれました。理一郎りいちろう五歳ごさいの1891ねん明治めいじ24ねん父栄助ちちえいすけ仕事しごと失敗しっぱいし、そのはは実家じっかられました。19さいのときちちのいるアメリカにき、ニューヨークで陶器商とうきしょうをしているちちいえから学校がっこうかよいました。
 このころから大好だいすきだった理一郎りいちろうは、22さいでワシントン商業高校しょうぎょうこうこうかよいながら、よるには、コーラン美術学校びじゅつがっこうまなびました。
 4年間ねんかん卒業そつぎょうするはずのコーラン美術学校びじゅつがっこうを3ねんでおえると、アカデミー・オブ・デザインという学校がっこう特待生とくたいせい成績せいせき優秀ゆうしゅうなのでおかねはらわなくても勉強べんきょうさせてもらえる学生がくせい)として入学にゅうがくし、とても成績せいせき卒業そつぎょうしました。1911ねん明治めいじ44ねん)、25さいとき、パリのアカデミー・ジュリアンという学校がっこうまなびました。1913ねん大正たいしょうねん)、理一郎りいちろうが27さいのとき、日本人にほんじんとしてはじめてサロン・ドートンヌに「巴里風景ぱりふうけい」2てん入選にゅうせんしました。
 その後病気ごびょうきになってしまったので、フランスからアメリカヘ、そして1919ねん大正たいしょうねん)10がつ、14ねんぶりで日本にほんかえりました。日本国内にほんこくないでは1925ねん大正たいしょう14ねん)、梅原龍三郎うめはらりゆうざぶろうとともに国画創作協会洋画部こくが-そうさくきょうかい-ようがぶをつくったり、パリ時代じだいにやっていた「金曜会きんようかい」を大森おおもりのアトリエでひらいたりして、おおくの画家がかそだてました。
 1948ねん昭和しょうわ23ねん日本芸術院会員にほんげいじゅついん-かいいんとなり、1965ねん昭和しょうわ40ねん)には勲三等くんさんとう瑞宝章ずいほうしょうという勲章くんしょうをもらいました。また、マチスやピカソという有名ゆうめい芸術家げいじゅつかともしたしくしていました。
 理一郎りいちろうはヨーロッパふうかたにアジアの文化ぶんかのよさをわせたきつづけましたが、1971ねん昭和しょうわ46ねん)10がつ、85さいでなくなりました。三宝院さんぽういんにおはかがあります。