山越忍空
(やまこしにんくう)
(1872〜1934)

ばん阿寺なじ法燈ほうとうまも
境内けいだい建造物けんぞうぶつ整備せいび尽力じんりょく

 明治維新めいじいしんのち廃仏毀釈運動はいぶつきしゃくうんどうあたらしい時代じだいになって、仏教ぶっきょうをすてて、おてら仏像ぶつぞう建物たてものいたり、こわしたり、また、住職じゅうしょくをやめさせたりして、おてらをなくそうとする運動うんどう)がありました。また、おてらをもりててたすけるいえがありませんでした。このように、おてらつづけていける余裕よゆうのない状態じょうたいで、関東かんとう有名ゆうめいなおてらである足利あしかが・ばん阿寺なじ法燈ほうとう仏前ぶつぜんかり)をまもつづけたのは、そのとき住職じゅうしょく山越忍空やまこしにんくうでした。
 忍空にんくう安蘇郡あそぐんきゅう赤見村出流原あかみむらいずるはら豪農ごうのうゆたかでちからつよ農家のうか)・関根又蔵せきねまだぞうの2番目ばんめおとこどもでした。11さいでおぼうさんになるために、かみをそって先生せんせい山越忍禅やまこしにんぜんのおてらにはいりました。東京とうきょうって、護国寺ごこくじというおてらなかにある真言大学林しんごんだいがくりんまなびました。先生せんせい忍禅にんぜんくなり、ばん阿寺なじだい42代目だいめ住職じゅうしょくになったのは、わずか25さいときでした。
 忍空にんくうなやみは、おてらたすけ、もりててくれるいえひとつもないばんばん阿寺なじが、1万2つぼ敷地しきち土地とち)に20とうあまりもある建物たてもの数百点すうひゃくてんもある重宝什器じゅうほうじゅうき大切たいせつ宝物たからものである家具かぐ道具どうぐうつわなど)をきちんとしておかなくてはならず、それにはどうしたらいいのかということでした。もともと歴史れきし興味きょうみっていた忍空にんくうは、古文書こもんじょふる時代じだいのことがかれているほん)を中心ちゅうしんにばん阿寺なじ文化財ぶんかざい的価値てきかちあきらかにしました。1908ねん明治めいじ41ねん)には本堂ほんどう鐘楼しょうろう(つりがね)がくに特別保護建物とくべつほごたてもの特別とくべつまもってそのままの姿すがたにしておく建物たてもの)(のち国宝こくほう現在重要文化財げんざいじゅうようぶんかざい)に指定していされ、1916ねん大正たいしょうねん)および1933・34ねん昭和しょうわ8・9ねん)にくにからのおかねて、もとどおりになおすことになりました。また、1922ねん大正たいしょう11ねん)には足利氏宅跡あしかがしたくあととして史蹟しせき歴史れきしかんがえるうえ大切たいせつ場所ばしょ)に指定していされるなど、くにによる補助ほじょたすけ)のみちひらいたことは、忍空にんくう業績ぎょうせき (やりとげた仕事しごと)でした。
 また忍空にんくうは、ばん阿寺なじ維持会いじかい・ばん阿寺保勝会なじほしょうかい(ばん阿寺なじまもっていくかい)をつくり、てらなか建物たてものをきれいにしてまもっていくようにしたり、大日尊だいにちそん(おてらにまつってあるほとけさま)のはるあきの2かい大祭たいさい節分会鎧年越せつぶんえよろいとしこし節分せつぶんときおこなっている鎧行列よろいぎょうれつ)などの行事ぎょうじをつぎつぎにおこない、たくさんの人々ひとびと仏教ぶっきょうしん大切たいせつにするこころたかめて、さらに、おてらにおかねがはいるようにしたことなど、ばん阿寺なじがもっとさかえるためにちからをそそぎました。
 忍空にんくう業績ぎょうせき (やりとげた仕事しごと)でとくにすばらしいのは、1901ねん明治めいじ34ねん)4がつにはじまった足利幼稚園あしかがようちえんをつくったことでしょう。これは栃木県とちぎけんなかではじめての私立幼稚園しりつようちえん個人こじんのおかねでつくった幼稚園ようちえん)でした。幼稚園ようちえんをつくったきっかけについては、「おてらなかあそどもや子守こもりのらんぼうな言葉ことばづかいや行動こうどうて、そのたちがまなべるように子守こもり学校がっこうをつくったり、幼稚園ようちえんをつくったりした」(山越忍済著やまこしにんさいちょ足利あしかがのばん阿寺なじ」)とあります。忍空にんくう28さいときでした。
 忍空にんくうは、東京女子とうきょうじょし高等師範学校こうとうしはんがっこう付属幼稚園ふぞくようちえん幼稚園ようちえんのモデル(お手本てほん)にしたので、きちんと保母ほぼになるための勉強べんきょうをしたおんなひとおお先生せんせいとしてむかえました。これは、忍空にんくうが、教育者きょういくしゃとしてただしいかんがかたをしていたといえます。学習がくしゅうすることもきそろばん(国語こくご算数さんすう)といった学習がくしゅうではなく、幼稚園児ようちえんじこころからだ発達はったつにあったものでした。
 1902ねん明治めいじ35ねん)3がつだい1回修了者しゅうりょうしゃ卒園生そつえんせい)11にんなかには、首都圏整備しゅとけんせいび審議会長しんぎかいちょうという大切たいせつ役割やくわりをつとめた新居善太郎あらいぜんたろうやむかしの市会議員しぎかいぎいん両毛民友新聞りょうもうみんゆうしんぶんをつくった広田父らがいます。
 忍空にんくうはまた、「ばん阿寺小史なじしょうし」「足利之茶道あしかがのさどう」「偉人竹洞いじんちくどう」などおおくのほんいており、黒板勝美くろいたかつみ辻善之助つじぜんのすけ渡辺世祐わたなべせゆう八代国治やしろくにはるらの学者がくしゃともながあいだしたしくつきあっていました。ばん阿寺なじ長年ながねん伝統でんとうやぶ結婚けっこんしたのも忍空にんくうであり、先代せんだい住職じゅうしょく忍済にんさい忍空にんくう実子じっしのつながりのある本当ほんとうども)です。1934ねん昭和しょうわねん)、当時とうじ国宝こくほうであった大御堂おおみどう解体修理かいたいしゅうりがまさにわろうとするときに、忍空にんくう病気びょうきにかかってくなりました。