明治維新の後、廃仏毀釈運動(新しい時代になって、仏教をすてて、おてらの仏像や建物を焼いたり、こわしたり、また、住職をやめさせたりして、お寺をなくそうとする運動)がありました。また、お寺をもり立てて助ける家がありませんでした。このように、お寺を続けていける余裕のない状態で、関東の有名なお寺である足利・ばん阿寺の法燈(仏前の明かり)を守り続けたのは、その時の住職山越忍空でした。
忍空は安蘇郡の旧赤見村出流原の豪農(豊かで力の強い農家)・関根又蔵の2番目の男の子どもでした。11歳でお坊さんになるために、髪の毛をそって師(先生)山越忍禅のお寺にはいりました。東京に行って、護国寺というお寺の中にある真言大学林に学びました。先生の忍禅が亡くなり、ばん阿寺第42代目の住職になったのは、わずか25歳の時でした。
忍空の悩みは、お寺を助け、もり立ててくれる家が一つもないばんばん阿寺が、1万2千坪の敷地(土地)に20棟あまりもある建物と数百点もある重宝什器(大切な宝物である家具や道具、器など)をきちんとしておかなくてはならず、それにはどうしたらいいのかということでした。もともと歴史に興味を持っていた忍空は、古文書(古い時代のことが書かれている本)を中心にばん阿寺の文化財的価値を明らかにしました。1908年(明治41年)には本堂と鐘楼(つりがね)が国の特別保護建物(特別に守ってそのままの姿にしておく建物)(のち国宝、現在重要文化財)に指定され、1916年(大正5年)および1933・34年(昭和8・9年)に国からのお金が出て、もとどおりになおすことになりました。また、1922年(大正11年)には足利氏宅跡として史蹟(歴史を考える上で大切な場所)に指定されるなど、国による補助(助け)の道を開いたことは、忍空の業績 (やりとげた仕事)でした。
また忍空は、ばん阿寺維持会・ばん阿寺保勝会(ばん阿寺を守っていく会)をつくり、寺の中や建物をきれいにして守っていくようにしたり、大日尊(お寺にまつってある仏さま)の春と秋の2回の大祭や節分会鎧年越(節分の時に行っている鎧行列)などの行事をつぎつぎに行い、たくさんの人々の仏教を信じ大切にする心を高めて、さらに、お寺にお金がはいるようにしたことなど、ばん阿寺がもっとさかえるために力をそそぎました。
忍空の業績 (やりとげた仕事)で特にすばらしいのは、1901年(明治34年)4月にはじまった足利幼稚園をつくったことでしょう。これは栃木県の中ではじめての私立幼稚園(個人のお金でつくった幼稚園)でした。幼稚園をつくったきっかけについては、「お寺の中で遊ぶ子どもや子守のらんぼうな言葉づかいや行動を見て、その子たちが学べるように子守の学校をつくったり、幼稚園をつくったりした」(山越忍済著「足利のばん阿寺」)とあります。忍空28歳の時でした。
忍空は、東京女子高等師範学校付属幼稚園を幼稚園のモデル(お手本)にしたので、きちんと保母になるための勉強をした女の人を多く先生としてむかえました。これは、忍空が、教育者として正しい考え方をしていたといえます。学習することも読み書きそろばん(国語や算数)といった学習ではなく、幼稚園児の心や体の発達にあったものでした。
1902年(明治35年)3月の第1回修了者(卒園生)11人の中には、首都圏整備審議会長という大切な役割をつとめた新居善太郎やむかしの市会議員で両毛民友新聞をつくった広田父らがいます。
忍空はまた、「ばん阿寺小史」「足利之茶道」「偉人竹洞」など多くの本も書いており、黒板勝美・辻善之助・渡辺世祐・八代国治らの学者とも長い間親しくつきあっていました。ばん阿寺の長年の伝統を破り結婚したのも忍空であり、先代の住職忍済は忍空の実子(血のつながりのある本当の子ども)です。1934年(昭和9年)、当時国宝であった大御堂の解体修理がまさに終わろうとするときに、忍空は病気にかかって亡くなりました。
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