近藤南泰
(こんどうなんたい)
(1818〜1854)

 近藤南泰こんどうなんたいは、江戸時代えどじだいには法眼ほうがんというくらいになっており、幕府ばくふ医者いしゃでした。南泰なんたい日本にほん医学いがく立場たちば治療ちりょうする方法ほうほうでした。しかしかれんだほん調しらべると、オランダの医学いがく数多かずおおのこっており、むしろ西洋医学せいよういがくをしっかりにつけたうえでの方法ほうほうであったことがわかります。
 当時とうじはかかると可能性かのうせいたか伝染病でんせんびょう天然痘てんねんとうについて、「種痘篇しゅとうへん」というほんを、南泰なんたいいています。当時とうじ幕府ばくふもその予防よぼうとしての種痘しゅとうという方法ほうほうれていたので、かれもその方法ほうほう重要性じゅうようせい興味きょうみがあったことがわかります。さらに中国ちゅうごく学問がくもん漢学かんがく)をおしえる場所ばしょもうけ、おしえていました。
 南泰なんたい二男じなん隆甫りゅうほは、葉鹿町はじかちょう近藤家こんどうけ医業いぎょうぐとともに、地域社会ちいきしゃかい貢献こうけんすることをめあてにしていました。「医師いしたるものざいきづくことなかれ」と日頃ひごろからくちにしていたので、家族かぞくかいこそだてて家計かけいささえていたといわれてます。また隆甫りゅうほ村会議員そんかいぎいんにもなっています。