近藤南泰は、江戸時代には法眼という位になっており、幕府の医者でした。南泰は日本の医学の立場で治療する方法でした。しかし彼が読んだ本を調べると、オランダの医学が数多く残っており、むしろ西洋医学をしっかり身につけた上での方法であったことがわかります。
当時はかかると死ぬ可能性が高い伝染病の天然痘について、「種痘篇」という本を、南泰は書いています。当時幕府もその予防としての種痘という方法を取り入れていたので、彼もその方法の重要性に興味があったことが判ります。さらに中国の学問(漢学)を教える場所を設け、教えていました。
南泰の二男の隆甫は、葉鹿町の近藤家と医業を継ぐとともに、地域社会に貢献することをめあてにしていました。「医師たる者、財を築くことなかれ」と日頃から口にしていたので、家族は蚕を育てて家計を支えていたといわれてます。また隆甫は村会議員にもなっています。
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