田崎草雲の住まいである白石山房ができあがり、また足利での最初の新聞「叢鳴珍談」ができた明治のはじめのころの足利地方は、織物をつくっているところとして日本中に名まえが知られるようになってきました。ちょうどそのころ、通4丁目に第四十一国立銀行足利支店が、足利でただ1つの新しいやり方でお金を扱うところとしてつくられ、相場杢左衛門はこの銀行の支配役としてよばれて仕事をしています。
足利銀行をつくった、荻野萬太郎が、四十一国立銀行へ見習いとしてはいったのが1895年(明治28年)ですが、この時の四十一国立銀行の支配人は須永平太郎、支配役は杢左衛門がやっていました。
杢左衛門は江戸時代の殿様の家来の相場好善の4番目の子どもとして1855年(安政2年)8月、今の東京の神田小川町にあった足利の殿様の家で生まれました。幼いころの名は、広四郎好知といいます。殿様につかえてから約半年後、国をおさめる人がかわり、新しい政府ができました。その時に、足利に帰り、いろいろなところで活躍しました。
その第一歩は足利学校(旧東小学校)の教師でした。わずか19歳の青年教師でした。二十代になった杢左衛門は学務委員、勧業委員、町会議員などになり、さらに1883年(明治16年)11月にはじまった足利法律学舎(法律を勉強する学校)をつくりました。学舎は3丁目の共益会館の東にあった旭香社のなかで、特別会員と普通会員をあつめ、初代足利市長となった川島平五郎と杢左衛門が幹事となり、講師兼学長には、当時第一の法律学者であった元田直を招きました(須永弘『足利発展史』)。
県会議員、第八代官選戸長、初代名誉町長として活躍活躍し、地域を自分たちの力でおさめる力を発揮したのは三十代のことでした。そして四十代になった杢左衛門は、最初にあるように、お金を扱う仕事をする人として活躍します。1895年(明治28年)10月になると足利銀行がいよいよ仕事をはじめますが、杢左衛門はみんなから頼まれて、その時の事務の仕事を担当しました。当時の役員は頭取荻野萬太郎、支配人相場杢左衛門で、全員、和服前垂掛というスタイルで働きました。その後、杢左衛門は約10年の間、足利銀行がよりよくなるようにつくしました。しかしながら、病気になり、支配人の仕事を辞めました。
ここに一枚の広告文があります。1900年(明治33年)につくられた「足利土産」にのせられたものですが、これによると杢左衛門は時計、寒暖計(温度計)などといっしょに和洋酒(日本や外国のお酒)、びん詰、かん詰類などの商品を2丁目で売っていたことがわかります。しかし、この宣伝文は、大きく変化する現代社会ではとても通じないものでしょう。たとえば、「時計の修理代は他の店より高いのですが、そのかわり無責任な仕事もしません。当店は巧言令色(みえやおせじ)はもっとも苦手ですが、店員一同誠心誠意で接待します(こころをこめておもてなしします)。」
などと宣伝したからです。いかにも杢左衛門らしい、もとは武士だったことがわかる感じがします。
杢左衛門は1908年(明治41年)12月3日、病気で亡くなりました。法名は大広院直心悟道居士といいます。
友人の堀江浦太郎は杢左衛門の死を悲しんで、次のような追悼歌を贈りました。
照る月の影をかくして袖ぬらす、しぐれの雨のうらめしきかな
前にもどる
トップにもどる
|