根岸茂吉
(ねぎしもきち)
(1831〜1890)

和算家わさんか 根岸ねぎし和算塾わさんじゅくをつくる

 根岸ねぎし茂吉もきちは、1831ねん天保てんぽうねん)にまれ、山下村やましたむらいま鹿島町かしまちょう)にんでいました。
 茂吉もきちは、最上流さいじょうりゅう和算わさん)をまなんだ小俣村おまたむら大川おおかわ栄貞というひと弟子でしになり、和算わさんまなびました。和算わさんとは、日本にほんにしかない算数さんすうのことで、江戸えど時代じだいには、おおくの人々ひとびとしたしまれていました。1865ねん元治がんじねん)に根岸ねぎし和算塾わさんじゅくひらき、和算わさん仕方しかた弟子でしたちにおしえました。茂吉もきちは、1875ねん明治めいじねん)に、「算法さんぽう顆籌かちゅう運筆うんぴつ」というほんきました。珠算しゅざん(そろばんを使つかってする計算けいさん)、ちゅう算木術さんぎじゅつ(ぼうを使つかった計算けいさん方法ほうほう)のことをあらわしています。ほんには、かけざん九九くく面積めんせき体積たいせきもとかたなどがまとめられています。茂吉もちきは、あたらしいなかになって、西洋せいようかんがかた日本にほんにはいってきたので、ふる和算わさんあたらしい西洋せいようかんがかたをミックスして、このほんをつくったようです。足利あしかがほん印刷いんさつしてしたのはこれが最初さいしょといわれています。また、茂吉もきちは、算盤そろばんもたいへんじょうずに使つかいこなしていました。算盤そろばん利用りようは、計算けいさんらくにするためのものでした。
 茂吉もきちは、1890ねん明治めいじ23ねん)にくなりました。
 和算わさんでは、算数さんすう問題もんだいこたえを「算額さんがく」というがくにして、絵馬えまのように神社じんじゃおさめました。
  和算わさんは、
   ・たのしむ
   ・つくり、みず土木どぼく工事こうじ
   ・天体てんたい観測かんそくしてこよみめる
   ・あきな
  などに使つかわれていましたが、そのにどんな使つかわれかたをしていたか、当時とうじのそろばんなどの道具どうぐといっしょに調しらべてみるのもおもしろそうですね。