峯岸政逸
(みねぎしまさいつ)
(1846〜1916)

考古学こうこがく先駆者せんくしゃ
足利公園三号墳あしかがこうえんさんごうふん発掘はっくつ

 「日本にほん最古さいこ学校がっこうのあるまち」と市民憲章しみんけんしょう市民しみん生活せいかつのためにめたきまり)の最初さいしょ文化財保護ぶんかざいほご人間にんげんがつくってきた価値かちのあることやものをまもること)をうたっている足利あしかがでは、明治めいじよりあと、なんにんかの考古学こうこがく研究者けんきゅうしゃをうみだしています。そのさきってっぱっていく役割やくわりをした一人ひとり峯岸政逸みねぎしまさいつがいます。
 政逸まさいつは、1846ねん弘化こうかねん)、今福村いまふくむらにうまれました。うまれたいえ屋根やねをふきかえたものの、いまでものこっており、政逸まさいつまご壮一氏そういちしはなしでは、200年以上ねんいじょうはたっているとのことです。
 1846ねん弘化こうかねん)にうまれた政逸まさいつ青年せいねんのころに田崎草雲(たざきそううん)川上広樹(かわかみひろき)たちの影響えいきょうをうけたようです。(草雲そううんのえがいた「日本武尊人物画やまとたけるのみことじんぶつが」があったということです。)くわしいことはわかりませんが、峯岸家みねぎしけにある明治めいじのはじめのころの金属板写真きんぞくばんしゃしん金属きんぞくいたがフィルムのかわりになっている写真しゃしん)には壮士風そうしふう武士ぶしのようないさましい姿すがた)の政逸まさいつが、相場朋厚(あいばともあつ)たち5にんとおさまっています。1885ねん明治めいじ18ねん)、足利公園あしかがこうえん南西なんせい足利織物講習所あしかがおりものこうしゅうじょがつくられると、荻野萬太郎(おぎのまんたろう)たちのあと足利あしかが政治せいじ経済けいざい中心的ちゅうしんてき人物じんぶつとなって生徒せいとにおしえました。外国がいこく輸出(ゆしゅつ)するための織物(おりもの)仕事しごとについてもおしえていたので、おそらく織物おりもの技術ぎじゅつだけでなく、「文明開化ぶんめいかいか明治時代めいじじだい、ヨーロッパの文化ぶんかはいってきたころの日本にほんのようす)」を紹介しょうかいした授業じゅぎょうであったとおもわれます。
 政逸まさいつはまた、1877ねん明治めいじ10ねん)ごろ織物おりもの意匠登録いしょうとうろくかたちいろなどをくふうしたデザインを、自分じぶんがおもに使つかえるように登録とうろくすること)を当時とうじ工部局こうぶきょくへもうしでるなど研究家けんきゅうかでもありました。1886ねん明治めいじ19ねんはる足利公園あしかがこうえんをつくっているときに、発見はっけんされた古墳こふんこふん円墳えんふん)(古代人こだいじんはか)の調査ちょうさをおこないました。これが現在市げんざいし文化財ぶんかざい指定していされている足利公園三号墳あしかがこうえんさんごうふんです。 両毛鉄道りょうもうてつどう建設けんせつ足利あしかがにやってきた東京帝国大学総長とうきょうていこくだいがくそうちょう渡辺洪基わたなべこうきが、発掘はっくつされた祝部土器馬具ばぐ武具ぶぐなどをみて、いそいでとなりにある古墳こふん調査ちょうさを、このとしなつ坪井正五郎つぼいしょうごろうにおねがいしました。これが日本にほんはじめての古墳こふん学術調査がくじゅつちょうさ学問がくもん役立やくだてるための調査ちょうさ)とされています。東京人類学雑誌とうきょうじんるいがくざっし30号ごう明治めいじ21ねん月発行がつはっこう)に「足利あしかが古墳こふん発掘はっくつ報告ほうこく」として坪井正五郎つぼいしょうごろう調査ちょうさ結果けっかを50ページにもなる報告書ほうこくしょでまとめています。
 この報告書ほうこくしょはそのころとしては考古学こうこがく入門書にゅうもんしょ(はじめてまなひとのために考古学こうこがくについておおまかにまとめたほん)のような内容ないようで、外国がいこくはか とくらべたり、ほかの古墳こふんのことにもふれています。峯岸家みねぎしけには渡辺総長わたなべそうちょう坪井正五郎つぼいしょうごろう博士はくし手紙てがみがあったとのことです。報告書ほうこくしょは1ごう・2ごう・3ごうの3古墳こふん石室せきしついしでつくられた部屋へや)とその内部ないぶにいっしょにうめられた装飾品そうしょくひんにつけるかざりもの)・武具ぶぐ土器どきについてをつかっていています。 現在げんざい、それらの遺物いぶつはばん阿寺なじ保管ほかんしていますが、金箔きんぱく杏葉ぎょうよう馬具ばぐ)は政逸まさいつがけた3号墳ごうふんから発見はっけんされたものです。さびかけた金属製品きんぞくせいひんをもとのかたちちか状態じょうたいでほりだし、保存ほぞんすることには大変たいへん努力どりょく必要ひつようです。このことをかんがえると、調査ちょうさをした政逸まさいつ態度たいどは「なんとなくおもしろそうだ」という気持きもちではなく、学術調査がくじゅつちょうさそのものであったことがわかります。
 そのも、政逸まさいつ今福いまふく足利公園あしかがこうえんなどにある古墳こふんなどに関心かんしんったとおもわれます。
 今福村会議員いまふくそんかいぎいんなど地方政治ちほうせいじにも関係かんけいし、田中正造たなかしょうぞうともはなしをしたりすることもありました。1916ねん大正たいしょうねん)70さいでなくなりました。