小佐野真砂岐
(こさのまさき)
(1762〜1840)

九州で小倉織習得

  りにけり稲雀

 足利あしかがばん阿寺なじ山門さんもんをくぐり、石畳いしだたみ参道さんどうを30メートルほどすすんだ左側ひだりがわさくのなかに、このきざんだ句碑くひがあります。これは真砂岐まさきがのこした句碑くひです。
 真砂岐まさきは1762ねん宝暦ほうれき12ねん)、寺家じけ(ばん阿寺なじ領地りょうち)にまれ、本名ほんみょう茂右衛門福秀もうえもんふくひでといい、べつ槻庵つきあんという名前なまえもありました。真砂岐まさきいえすじは、代々だいだいばん阿寺なじまもるためにいたおさむらいだったといわれていますが、そのころははたおりの仕事しごともしていました。真砂岐まさきいえ仕事しごとをしている合間あいまに、俳句はいくをよんだりしていました。はじめに俳句はいくおしえてくれたのは、福田官鯉という人でした。
 真砂岐まさき結婚けっこんした時期じきははっきりしていないようですが、つまは1787ねん天明てんめいねん)にくなっています。26歳のときでした。このころに、真砂岐まさき俳句はいく勉強べんきょうをするためにいろいろなところに旅行りょこうきました。しかし、これは大好だいすきなつまくしたこころきずをいやすためのものだったのかもしれません。このとき九州きゅうしゅう小倉こくらなんげつんで、小倉織こくらおり勉強べんきょうしました。やがて旅行りょこうえて足利あしかがかえった真砂岐まさきは、自分じぶんいえ工場こうじょうおぼえてきた小倉織こくらおりはじめましたが、そのできばえはすばらしいものでした。そこで自分じぶん俳句はいくつくるときの名前なまえにちなんで「真砂岐まさきおり」とづけてしたところ、とてもいい評判ひょうばんでした。その、この「真砂岐まさきおり」は名前なまえを「足利あしかが小倉こくら」とかえて、足利織物あしかがおりもの評判ひょうばんをさらにくしました。
 また、1年以上ねんいじょう旅行りょこうによってたくさんの俳句はいくつくひとしたしくなり、俳句はいく世界せかいでも有名ゆうめいになりました。1802ねん享和きょうわねん)には金令舎道彦きんれいしゃみちひこというひと足利あしかがんで、さらにしたしくなりました。また千住関谷せんじゅせきや東京都とうきょうと足立区あだちく)の秋香庵巣兆しゅうこうあんそうちょうともふかうようになり、江戸えどでも有名ゆうめいになりました。しかし道彦みちひこ巣兆そうちょうくなったあとは、足利あしかがにずっとみ、後輩こうはいたちに俳句はいくおしえていました。そのとき真砂岐まさきのところで勉強べんきょうしたのが須永嵐斎すながらんさい田部井文窓たべいぶんそう雪堂せつどうなどのひとたちでした。真砂岐まさき句碑くひは、これらのひとたちが中心ちゅうしんになってつくってくれたそうです。
 としをとってからはいえ仕事しごと息子むすこ秀胤ひでたねにゆずり、のんびりとくららしていました。しかし、ときどきはとおくから友達ともだちがやってきたり、また足利あしかがんでいるひとびとといっしょに俳句はいくをよんだりして、毎日まいにちがとてもたのしいものでした。このころのようすは大野おおの景山けいざんの「斗藪雑記とそうざつき」というほんいてあります。書道家しょどうかであり、俳人はいじんでもあった景山けいざんがやってきたのは1832ねん天保てんぽうねん)5がつですが、このとき出会であいの模様もようがとてもおもしろくのこされています。

 織殿のどちらにくやほととぎす   景山
 西行歌長者なりくりはな       真砂岐まさき
 かさしたえば入梅つゆばれの   桃翁

 このとき71さいでしたが、それから8年後ねんごの1840ねん天保てんぽう11ねん)4がつ17にち、79さいでなくなりました。最後さいごによんだ俳句はいくは「豆煎まめいりて今朝けさけり子規ほととぎす」でした。