来し方の日は入りにけり稲雀
足利ばん阿寺の山門をくぐり、石畳の参道を30メートルほどすすんだ左側の柵のなかに、この句を刻んだ句碑があります。これは真砂岐がのこした句碑です。
真砂岐は1762年(宝暦12年)、寺家(ばん阿寺の領地)に生まれ、本名を茂右衛門福秀といい、別に槻庵という名前もありました。真砂岐の家の血すじは、代々ばん阿寺を守るためにいたお侍だったといわれていますが、そのころは機おりの仕事もしていました。真砂岐は家の仕事をしている合間に、俳句をよんだりしていました。はじめに俳句を教えてくれたのは、福田官鯉という人でした。
真砂岐が結婚した時期ははっきりしていないようですが、妻は1787年(天明7年)に亡くなっています。26歳のときでした。このころに、真砂岐は俳句の勉強をするためにいろいろなところに旅行に行きました。しかし、これは大好きな妻を亡くした心の傷をいやすためのものだったのかもしれません。この時、九州の小倉に何か月か住んで、小倉織も勉強しました。やがて旅行を終えて足利に帰った真砂岐は、自分の家の工場で覚えてきた小倉織を始めましたが、そのできばえはすばらしいものでした。そこで自分の俳句を作るときの名前にちなんで「真砂岐織」と名づけて売り出したところ、とてもいい評判でした。その後、この「真砂岐織」は名前を「足利小倉」とかえて、足利織物の評判をさらに良くしました。
また、1年以上の旅行によってたくさんの俳句を作る人と親しくなり、俳句の世界でも有名になりました。1802年(享和2年)には金令舎道彦という人を足利に呼んで、さらに親しくなりました。また千住関谷(東京都足立区)の秋香庵巣兆とも深く付き合うようになり、江戸でも有名になりました。しかし道彦、巣兆が亡くなった後は、足利にずっと住み、後輩たちに俳句を教えていました。その時に真砂岐のところで勉強したのが須永嵐斎、田部井文窓、雪堂などの人たちでした。真砂岐の句碑は、これらの人たちが中心になってつくってくれたそうです。
年をとってからは家の仕事を息子の秀胤にゆずり、のんびりと暮らしていました。しかし、ときどきは遠くから友達がやってきたり、また足利に住んでいる人びとといっしょに俳句をよんだりして、毎日がとても楽しいものでした。このころのようすは大野景山の「斗藪雑記」という本に書いてあります。書道家であり、俳人でもあった景山がやってきたのは1832年(天保3年)5月ですが、この時の出会いの模様がとてもおもしろくのこされています。
織殿のどちらに啼くやほととぎす 景山
西行は歌長者なり栗の花 真砂岐
笠を慕えば入梅ばれの日 桃翁
この時71歳でしたが、それから8年後の1840年(天保11年)4月17日、79歳でなくなりました。最後によんだ俳句は「豆煎りて今朝は聞けり子規」でした。
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