原田政七は、1876年(明治9年)、足利町通6丁目に生まれました。小学校を卒業した後、家の仕事を手伝いましたが、勉強をつづけたいという気持ちが強く、近くにすむ松田直人という先生のもとにかよって、勉強し、足利織物伝習所(今の足利工業高校)を卒業しました。
1892年(明治25年)、荻野萬太郎を中心に足利友愛義団がつくられると、それに参加し、足利の大火、三陸大津波や足尾銅山の鉱毒で被害にあった人々をすくうために、お金を送るなどの社会に奉仕する活動をつづけました。また、27歳のときには、友愛義団がつくった足利英語学校の学校長をつとめ、その後、1902年(明治35年)につくられた友愛幼稚園の二代目の園長となりました。
1907年(明治40年)、政七は31歳で足利町の町会議員となりました。その後、足利学校管理委員に選ばれ、足利学校を守るために努力をしました。
政七が70歳に近くなったころ、第二次世界大戦で、日本への空からのばくげきがはげしくなり、足利にもばくだんが落とされそうになってきました。政七は、足利学校から出してはいけないと言われていた大切な書物を山をこえた田沼町の飛駒というところの岩下家にひなんさせました。また、1945年(昭和20年)に戦争が終わって、アメリカなどの国が書物を取り上げてしまうことを心配した政七は、今度は市内の質屋さんに書物をあずけ、こんらんした時期をぶじに乗りきりました。
足利市のため、足利学校のためにいろいろな工夫や努力をつづけた政七は、1957年(昭和32年)10月、82歳でなくなりました。お墓は、通6丁目の三宝院というお寺にあります。
今も2月に行われているよろい行列は、政七を中心にして、1915年(大正4年)にはじめられたものです。伝統を大切にする政七の気持ちがつたわってくるように思えます。
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