相場茂精は、1813年(文化10年)に、要七の長男として生まれました。茂精は、はじめ要右衛門といいました。相場家は代々、戸田藩の名主をつとめていました。
またこのころから、はたおりの仕事もしていたので、それを通じて田中村の田部井文窓という人と知り合いになり、そして俳人(俳句をつくる人)の須永嵐斎と親しくなったようです。
茂精は、1867年(慶応3年)2月に、渡良瀬河原開発計画というものを戸田藩の殿様に提出しました。これはおよそ1町歩(約1万平方メートル)の広さの河原のくぬぎ林を切って、土地を開き、これに約2万本のくわを植えようという計画でした。この計画は、まもなく明治時代になってしまったので、実際には行われなかったようですが、そのころでは進んだ考えでした。
茂精は、須永嵐斎に俳句を学びました。だんだんと有名になり、1874年(明治7年)に<霧はみな日の出に消えて宮ばしら>、そして1880年(明治13年)に<誰か未て酒にする日の霞かな>という句が本にのりました。また1882年(明治15年)に出された「明治俳家五十鈴川集」という本には、他の有名な俳人と一緒に、十句が、茂精(水園、相場氏、下野国足利田島村)としてのせられています。相場茂精の名前は足利だけでなく全国の人にも知られるようになりました。
1877年(明治10年)11月、家を長男平兵衛にゆずった茂精は、友人をたずねて各地を歩き、その旅先でたくさんの俳句を残しています。
また、地元では俳句がさかんになるように努力したので、明治のはじめから中ごろにかけて、名草、大月あたりには、俳人がたくさんいました。
茂精は、1893年(明治26年)12月26日、81歳で亡くなりました。
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