相場茂精
(あいばもせい)
(1813〜1893)

俳句はいくとおして、文化ぶんか発展はってんにつくす

 相場茂精あいばもせいは、1813ねん文化ぶんか10ねん)に、要七ようしち長男ちょうなんとしてまれました。茂精もせいは、はじめ要右衛門ようえもんといいました。相場家あいばけ代々だいだい戸田とだはん名主なぬしをつとめていました。
 またこのころから、はたおりの仕事しごともしていたので、それをつうじて田中村たなかむら田部井文窓たべいぶんそうというひといになり、そして俳人はいじん俳句はいくをつくるひと)の須永嵐斎すながらんさいしたしくなったようです。
 茂精もせいは、1867ねん慶応けいおうねん)2がつに、渡良瀬河原わたらせかわら開発計画かいはつけいかくというものを戸田藩とだはん殿様とのさま提出ていしゅつしました。これはおよそ1町歩ちょうぶやく万平方まんへいほうメートル)のひろさの河原かわらのくぬぎばやしって、土地とちひらき、これにやく万本まんぼんのくわをえようという計画けいかくでした。この計画けいかくは、まもなく明治時代めいじじだいになってしまったので、実際じっさいにはおこなわれなかったようですが、そのころではすすんだかんがえでした。
 茂精もせいは、須永嵐斎すながらんさい俳句はいくまなびました。だんだんと有名ゆうめいになり、1874ねん明治めいじねん)に<きりはみなえてみやばしら>、そして1880ねん明治めいじ13ねん)に<だれさけにするかすみかな>というほんにのりました。また1882ねん明治めいじ15ねん)にされた「明治俳家五十鈴川集」というほんには、有名ゆうめい俳人はいじん一緒いっしょに、十句じゅっくが、茂精もせい水園相場氏あいばし下野国しもつけのくに足利田島村あしかがたじまむら)としてのせられています。相場茂精あいばもせい名前なまえ足利あしかがだけでなく全国ぜんこくひとにもられるようになりました。
 1877ねん明治めいじ10ねん)11がついえ長男ちょうなん平兵衛へいべえにゆずった茂精もせいは、友人ゆうじんをたずねて各地かくちあるき、その旅先たびさきでたくさんの俳句はいくのこしています。
 また、地元じもとでは俳句はいくがさかんになるように努力どりょくしたので、明治めいじのはじめからなかごろにかけて、名草なぐさ大月おおつきあたりには、俳人はいじんがたくさんいました。
 茂精もせいは、1893ねん明治めいじ26ねん)12がつ26にち、81さいくなりました。