渡辺休徳
(わたなべきゅうとく)
(1844〜1919)

種痘医しゅとういとして活躍かつやく

 渡辺休徳わたなべきゅうとくは、1844ねん弘化元年こうかがんねん)、渡辺休察わたなべきゅうさつとしてまれました。ちいさいころの名前なまえ得一郎とくいちろうといいました。
 1959ねん安政あんせいねん)、15さいとき江戸えどいま東京とうきょう)へき、医学いがくまなびました。そののち父親ちちおやのあとをつぎました。さらに、1863ねん文久ぶんきゅうねん)、足利藩あしかがはん医者いしゃにもなりました。とくに、戸倉戦争とくらせんそうでは、軍医ぐんいぐん医者いしゃ)としてけがをしたひと手当てあて活躍かつやくしました。
 1869ねん明治めいじねん)1がつ、2度目どめ医学いがく勉強べんきょう東京とうきょうき、9がつかえってきました。
 1879ねん明治めいじ12ねん)3がつ足利あしかが梁田やなだ郡役所ぐんやくしょから、足利あしかが種痘しゅとう鑑定方かんていがた種痘しゅとうたしかめる役目やくめ)になるようにいわれ、1884ねん明治めいじ17ねん)までつとめました。
 1885ねん明治めいじ18ねん)、足利町役場あしかがまちやくばから種痘医しゅとうい種痘しゅとう専門せんもんにやる医者いしゃ)をめいぜられ、1914ねん大正_ねん)までつとめました。種痘しゅとうというのは、天然痘てんねんとうという病気びょうきをふせぐため、天然痘てんねんとうにかかったうしからつくったワクチン(きているウィルス)を人間にんげん接種せっしゅすることで、イギリスのエドワード・ジェンナーという医者いしゃ発見はっけんした方法ほうほうです。休徳きゅうとくが、病気びょうきやけがの治療ちりょうだけでなく、人間にんげんいのちをおびやかすような、こわい病気びょうきからみんなをるために努力どりょくしていたことがわかります。
 休徳きゅうとくは、1919ねん大正たいしょうねん)に76さいでなくなりました。