富永金吉
(とみながきんきち)
(1865〜1937)

 富永金吉とみながきんきちは1865ねん慶応元年けいおうがんねん)、久野村くのむら大字おおあざ久保田くぼた現在げんざい久保田町くぼたちょう)にまれ、18さいとき機織はたおりの仕事しごとはじめて以来いらい、その後農業ごのうぎょう煉瓦工れんがこう米屋こめや瀬戸物商せとものしょうなどおおくくの職業しょくぎょうたずさわりました。
 このうち足利周辺あしかがしゅうへん両毛線りょうもうせん線路せんろ工事こうじ煉瓦れんが使つかうことから、1885ねん明治めいじ18ねん)、煉瓦れんが工場こうじょうはたらくようになり、わずか数ヶ月すうかげつあいだ煉瓦れんが製造せいぞう方法ほうほう修得しゅうとくしたといわれています。そのしょくえながら、東京とうきょう館林たてばやし商売しょうばいをしていましたが、東武鉄道とうぶてつどうが1907ねん明治めいじ40ねん足利あしかがまでの開通かいつうをめざした工事こうじおこなわれたため、ふたた煉瓦れんが製造せいぞうとその建築けんちく仕事しごとえてきました。そのため1898ねん明治めいじ35ねん)、34さい時助戸ときすけど煉瓦れんが工場こうじょうて、これにより煉瓦れんが建築けんちくすすめました。。もとの足利銀行あしかがぎんこう本店ほんてんも、かれ工場製作こうじょうせいさく煉瓦れんがによっててられたものだったそうです。
 1921ねん大正たいしょう10ねん)に足利あしかが市会議員しかいぎいんに、翌年よくねんには栃木とちぎ県会議員けんかいぎいんになりました。とく市議会議員しぎかいぎいんとしては、建築けんちく専門家せんもんかとして、足尾銅山あしおどうざんから木造もくぞう旧市庁舎きゅうしちょうしゃけたり、旧足利きゅうあしかが郵便局舎ゆうびんきょくしゃ建築けんちく活躍かつやくしました。また道路拡張どうろかくちょうにもちからくしました。
 1926ねん昭和元年しょうわがんねん)には、足利市あしかがし商工業しょうこうぎょう連合会れんごうかい会頭かいとうになる一方いっぽうで、仕事しごとでの利益りえき学校がっこう消防団しょうぼうだんなどに寄附きふしました。1928ねん昭和しょうわねん富永とみなが奉仕会ほうしかいつくって社会しゃかい貢献こうけんしました。


参考資料:宇賀神利夫『富永金吉翁』富永翁伝記刊行会