朝夕になるればなれてつく人の耳にはさわらぬ鐘の音かな
江戸時代にあって、足利地方に詩や文を書いた人の名前が出てくるのは、やはり文化、文政(1804年−1829年)のころですが、山藤清風もそのひとりです。清風は1802年(享和2年)小俣村根岸の里に生まれました。本名は政八で外山庵を名のりました。この山藤家の祖先(その家の一番最初の人)は山藤権六清光といい、藤原秀郷が平将門をたおそうと下野(今の栃木県)に来たとき、秀郷に従っていっしょに行動した武将で天慶の乱(将門、純友などの乱)の後、押領使になって小俣の里に住むことになった人です。それから、代々鶏足寺を守ってきましたが、明和(1764年−1771年)のころから織物業をするようになっていました。そして、桐生に場所が近いこともあり、山藤家は桐生の人と多く結婚していたところから、あたりまえのように桐生織物に関係するようになりました。
さて清風は、小さいころから読み書きが得意で、またほかの人と親しくなるのが上手だったといわれています。成長して本家(一族の中のもとの家)の機業(織物をつくる仕事)をしましたが、たまたま文政(1804年−1829年)のはじめのころ、広沢村(桐生)の彦部五兵衛といっしょに京都に行き、西陣織(京都市の西陣でつくられる高級な織物)の研究をすることになりました。そして苦労して、金襴織の織法(金の糸が織りこまれた絹織物の織り方)をあみ出しました。やがてこの織法は桐生新町の吉田安兵衛に伝えられ、倭金襴、吉野金襴となって売り出されることになりました。足利市指定文化財である鶏足寺にある「山藤の錦」は清風がつくったものです。
ここからは、清風の歌業(和歌を作る仕事)について書くことにします。清風が橘守部(国学者で浅草に住む)の門葉(生徒)となったのは青年期のころと思われます。守部は桐生の買継商(いろいろなものを買ってほかの人に売る仕事)吉田秋主と特別な関係にあったところから、桐生には20人近くの門人(生徒)を持っていましたが、清風もこれらの人たちとつきあっていたと思われます。清風は歌を作るのに熱心で、しかもその歌はすばらしいものでした。実は1838年(天保9年)の秋三都書林から出された「下蔭集」(橘守部の門人歌集)を見ると、この中に百あまりの歌がのっています。このことからもその実力がわかると思います。
清風は根岸の里にときどき歌合せの席(歌をよみあう会)を行い、また自分もそうした席に行って、両毛地方の歌をよみあう人々の間でその名を高めていきました。守部の生徒たちの中でも四天王のひとり(4人のすぐれた人の一人)といわれるまでになりました。しかし惜しいことに1835年(天保6年)10月20日、34歳で亡くなりました。
このとき、守部はその死を悲しんで、「此人さうなきさとりありき、所のならはしとて、なりのかたへに、はたものおらしめけるが、そのあや機に、巧なること、凡そ上野下野にならぶべき手人なかりき、もとより心さし高くして、古言学をいたく尊び、うたも必ずひとふしあらせて云々(考え方のすばらしい人で、機織りの仕事をしていたが、その織物のすばらしさで、上野・下野の中ではならぶ人がいないくらいだ。古い昔の言葉の学問を熱心に学び、歌もすばらしいものだった)」と書いていますが、守部がどれほど清風に期待をかけていたかがわかります。
世をいとう我にそむきて山鳥
けさもふもとの里にゆくなり 清風
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