奥河内清香
(おくこうちきよか)
(1805〜1873)

 奥河内清香おくこうちきよか本名ほんみょう今尾逸平いまおいっぺいといい、新田上町しんでんかみちょうげん 通四丁目とおりよんちょうめ)の戸田藩とだはん医者いしゃつとめていた、今尾祐庵いまおゆうあん篤信あつのぶ)の三男さんなんとしてまれました。うえあに医者いしゃになりましたが、逸平いっぺい当初とうしょ江戸えど商家しょうか仕事しごとにでていました。しかし、病気びょうきになったため、足利あしかがもどってきたそうです。
 その1824ねん文政7ねん)20さいとき古典こてんから日本にほんのことをまなぼうという国学こくがくおさめようとして、武蔵国むさしのくに埼玉県さいたまけん幸手さって学者がくしゃ橘守部たちばなのもりべいて7年間学ねんかんまなびました。橘守部たちばなのもりべ江戸えど時代じだいはやった狂歌きょうかつく歌人かじんでもあり、桐生きりゅう門下生もんかせいおおく、足利あしかがにも名前なまえられていました。1832ねん天保てんぽうねん)27さいとき学問がくもんおさめて足利あしかがもどり、書道しょどう和歌わかおしえるじゅくひらきました。このころから普段ふだん生活せいかつでは今尾逸平いまおいっぺい使つかい、仕事しごとをするときは奥河内清香おくこうちきよか使つかけていたようです。
 じゅくでの仕事しごとのほか、古書こしょうつしたり、橘守部たちばなのもりべ門下生もんかせいとの歌会うたかいおこなっていました。また俳句はいくつく人々ひとびととも交流こうりゅうっており、この地域ちいきでの文学活動ぶんがくかつどうのまとまりをつくっていました。当時とうじ300めいほどの門下生もんかせいがいたことがわかっています。しかし清香きよかはまわりから江戸えどくことをすすめられたり、ほんなどをすようにいわれたりしたが、それらはおこないませんでした。
 
のちあし病気びょうきになったため、桐生きりゅう鉱泉こうせんに行っていますが、その様子ようす作品さくひんのこしています。そして1873ねん明治めいじねん)69さいでなくなり、巴町ともえちょう法玄寺ほうげんじほうむられました。かれ作品さくひんはその足利学校あしかががっこうあずけられています。