奥河内清香は本名を今尾逸平といい、新田上町(現 通四丁目)の戸田藩の医者を勤めていた、今尾祐庵(篤信)の三男として生まれました。上の兄2人は医者になりましたが、逸平は当初江戸の商家に仕事にでていました。しかし、病気になったため、足利に戻ってきたそうです。
その後1824年(文政7年)20歳の時、古典から日本のことを学ぼうという国学を修めようとして、武蔵国(埼玉県)幸手に住む学者の橘守部に付いて7年間学びました。橘守部は江戸時代はやった狂歌を作る歌人でもあり、桐生に門下生が多く、足利にも名前が知られていました。1832年(天保3年)27歳の時、学問を修めて足利に戻り、書道と和歌を教える塾を開きました。このころから普段の生活では今尾逸平の名を使い、仕事をするときは奥河内清香と名を使い分けていたようです。
塾での仕事のほか、古書を写したり、橘守部の門下生との歌会を行っていました。また俳句を作る人々とも交流を持っており、この地域での文学活動のまとまりをつくっていました。当時300名ほどの門下生がいたことがわかっています。しかし清香はまわりから江戸に行くことを勧められたり、本などを出すようにいわれたりしたが、それらは行いませんでした。 後に足の病気になったため、桐生の鉱泉に行っていますが、そのの様子を作品に残しています。そして1873年(明治6年)69歳でなくなり、巴町の法玄寺に葬られました。彼の作品はその後、足利学校に預けられています。
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