二代阿由葉勝作は、地主であった初代阿由葉勝作の長男で、鍋蔵といいました。父は織物製造や生糸販売でたくさんのもうけを得て、その資金を基に土地を買い集めて、地主の位置を固めたといわれます。
鍋蔵は実業家の父に似ず、学問を好んだので、幼い頃から本を集めていました。鍋蔵は父からそれを注意されることをさけるために、本を屋根裏に保管していたとい言われています。また鍋蔵の先生は、彼を教えるのには苦労がないといわれるほどかしこかったといわれています。
鍋蔵は1878年(明治11年)、足利北部の学校を管理する委員(学務委員)になり、学校を整備するとともに、自分の本を多くの子どもたちに開放したと言われています。しかし父はその息子が自分とちがう道みちを歩んでいたため、後継者として自覚させるために、勝作の名を継がせようとしたのではないかと言われています。だが鍋蔵は1884年(明治17年)、妻と三人の男の子を残して、二十五歳の若さで病死しました。
父は再び勝作を名乗り、残された孫を育て上げるとともに、鍋蔵の残した書籍を専門家に選ばせて、たくさんの本を足利学校に寄附しました。なお鍋蔵の長男長之助は、三代目阿由葉勝作として、政治家になりました。そして栃木県会議員・衆議院議員となり活躍したそうです。
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