二代 阿由葉勝作
(あゆはかっさく)
(1860〜1884)

 二代にだい阿由葉勝作あゆはかっさくは、地主じぬしであった初代しょだい阿由葉勝作あゆはかっさく長男ちょうなんで、鍋蔵なべぞうといいました。ちち織物製造おりものせいぞう生糸きいと販売はんばいでたくさんのもうけをて、その資金しきんもと土地とちあつめて、地主じぬし位置いちかためたといわれます。
 鍋蔵なべぞう実業家じつぎょうかちちず、学問がくもんこのんだので、おさなころからほんあつめていました。鍋蔵なべぞうちちからそれを注意ちゅういされることをさけるために、ほん屋根裏やねうら保管ほかんしていたといわれています。また鍋蔵なべぞう先生せんせいは、かれおしえるのには苦労くろうがないといわれるほどかしこかったといわれています。
 鍋蔵なべぞうは1878ねん明治めいじ11ねん)、足利北部あしかがほくぶ学校がっこう管理かんりする委員いいん学務委員がくむいいん)になり、学校がっこう整備せいびするとともに、自分じぶんほんおおくのどもたちに開放かいほうしたとわれています。しかしちちはその息子むすこ自分じぶんとちがうみちをあゆんでいたため、後継者こうけいしゃとして自覚じかくさせるために、勝作かっさくがせようとしたのではないかとわれています。だが鍋蔵なべぞうは1884ねん明治めいじ17ねん)、つま三人さんにんおとこのこして、二十五歳にじゅうごさいわかさで病死びょうししました。
 ちちふたた勝作かっさく名乗なのり、のこされたまごそだげるとともに、鍋蔵なべぞうのこした書籍しょせき専門家せんもんかえらばせて、たくさんのほん足利学校あしかががっこう寄附きふしました。なお鍋蔵なべぞう長男ちょうなん長之助は、三代目さんだいめ阿由葉勝作あゆはかっさくとして、政治家せいじかになりました。そして栃木県会議員けんかいぎいん衆議院しゅうぎいん議員ぎいんとなり活躍かつやくしたそうです。